「民芸」「民画」の問題点について、id:morohiro_s:20060128#p2で書いたことをちょっと補足。
近代日本において「民」ということが問題となり出したのは、1910年代くらいの頃である。その一例として、大杉栄が1917年にロマン・ロランのThéâtre du peupleを『民衆芸術論』と題して訳したことが挙げられるという(鹿野正直『近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))』)。もちろん19世紀の末くらいから、「官」に対するものとして「民」というものを対峙させる態度は、自由民権運動などのなかから出てくる(Carol Gluck, Japan's Modern Myths: Ideology in the Late Meiji Period (Studies of the East Asian Institute, Columbia University))のだが、いわば一つの文化創造の源泉として想定されるのは、10年代と考えてもいいと思う(「文化」が問題となり出したのもこの時代)。「民芸」のみならず、さまざまな「民」への関心がこの時代に起こるのは、先日のエントリに書いた通りである。
で、いわゆるポピュラー文化を語るときに、「民」を、「官」「高級文化」「支配階級」などのアンチとして、ロマン化する語り方は、脈々として現在に続く。とくに60年代の「闘争の時代」に、頻出したように思える。
ところが、どうもそんな簡単なもんじゃないんじゃないかという疑問が、80年代くらいから起こってくる。「民」的なものといっても、単純に抽象化できるものではなく、相当に多様なものを、その内に抱えているんじゃないか。また、「民」に関係する諸概念のなかから排除されているものは何か。また「民」というものは、単に権力に抑圧されるものでも、あるいは英雄的に抵抗するものでもなく、その間に無数のグラデーションがあるんじゃないか(「交渉negotiation」の概念=グラムシ〜ホール)。そういった疑問が出てきた。多分、「民俗」のように不変の伝統に立脚した真正なものでもなく、といって唯一無二の前衛的「芸術」でもない、「ヴァナキュラー」という概念が問題にされだした時期と一致するだろう。
となると、これまでの「民」の文化に関わる言葉も再考しなければいけない。例えば以下のような。

  • 民衆文化=popular culture:「官」のものや、「高級」なものに対立するものを指す形容詞としては、一応中立的かな? ただ、「大衆」と「民俗」の区別がここにも影を落としているのか、たとえば江戸時代のことに関しては「民衆」文化と呼び、近代、とくに現代の事象に関しては「ポピュラー文化」と訳すことが多いと思う。
  • 大衆文化=mass culture:これはあきらかに近代的、都市的なもの。massという言葉は、「大衆」すなわち、雑多な属性を持つ人々の集合体という意味の一方で、複製技術による大量生産/大量消費という側面も含むことから、たとえば南博編『大正文化―1905‐1927』などでは、訳さずに「マス文化」となっている。
  • 民俗文化=folk culture:大雑把に言うと、ある文化における伝統的、不変、非時間的な「本質」というニュアンスが強い。したがって近代以降の社会に出てきた諸要素は排除される。ただ、「都市民俗」や「少女民俗」なんて言葉があるように、当然この概念は揺れているのだが。
  • ヴァナキュラー文化=vernacular culture:上記の通り。ハイウェイ脇の景観とか、郊外の画一的な住宅とか(J. B. Jackson, Discovering the Vernacular Landscape)。ロバート・ヴェンチューリの『ラスベガス (SD選書 143)』あたりがはしりか(言葉を使い出したのはイリイチシャドウ・ワーク 生活のあり方を問う (岩波モダンクラシックス)』のほうが先)。ラヴ・ホテルやパチンコ屋の建築とか。トゥーリスト・アートとか、遺影写真、家族写真、心霊写真などもこの形容で表される。「民俗」(あるいはクリフォード的にいえば「文化」)的ではないもの。じゃあ、大衆文化との違いはというと、おそらく産業により与えられたものをそのまんま使うのではなく、なんか「工夫」し、ねじ曲げて使っているものという意味があると思う。「非=真正」で「異種混淆的」なもの。本来は「口語的」。

はぁ〜〜〜。ややこしい。何かすっきりしないエントリだな。もう少し整理しないといけない。他にも「庶民」「人民」「国民」などなど、山ほど色んなコノテーションを連れてくるものもあるし。
特に「民俗」に関して、現在の民俗学のフロントではどのような議論が交わされているのかについては、id:monodoiさんあたりに、お暇な時にでもご教示頂きたいと思うのですが、どうですか?