円意居士之墓

morohiro_s2009-07-12

法事で藤沢は遊行寺へ。ツレアイの家は、珍しいことに時宗なのです。時宗大本山ということで、なかなか立派な伽藍だが、といって豪奢というよりは簡素な雰囲気で良し。京都の色々な大寺が持っているような政治とのヤヤコシイ関係の歴史があまりないからか(実際のところは知らないが)



本堂の手前の木の下にいくつかの古い墓が。「圓意居士之墓」と刻された墓石は、三つにバラバラになったものを継ぎ合わせた模様。遊行寺は、関東大震災で甚大な被害を被ったらしく(倒壊した本堂を撮影した写真絵葉書が飾られていた)、その時にでも壊れたのだろうか。しかし、しっかりと補修されているところを見ると、よっぽど大事にされているようである。円意なる人物がどういう人かは知らないが『藤沢山日鑑 第11巻 (寛政13年〜文化2年)』の解説のタイトルが、「『一遍上人語録』刊行寄進者釈円意居士墓について」なので、寄進者かなんかだったのだろうか)、補修した人々の気持ちが伝わってくるようである。

  • 【追記】時宗の公式の歴史年表には、1770年秋に「『一遍上人語録』上下2巻が、円意の子勘平によって上梓」されたとある。やはり『語録』の刊行に関わった人物なのであろう。


余談だが、時宗と言えば、コロンビア大学での仏教史のクラスで、阿部龍一先生(今はハーヴァードの教授→http://www.fas.harvard.edu/~rijs/people/faculty/r_abe.htmlが、一遍の思想のラディカルさについて熱っぽく語っておられたのを思い出す。一度、一遍についての本も読んでみよう。

  • またまた余談だが、阿部先生が自らの苗字を「Abé」と綴られていたのを見て、「Abe」だと「エイブ」って読まれてしまうんだなと納得したっけ。ボクもアメリカ時代は「Sato」と表記していたんだけど、まず「セイトー」(『ピンク・パンサー』の「ケイトー」と一緒)と読まれていて、それから父が自らの苗字を「Satow」と表記していた訳の一端が分かったような気がした。ほんで、今はボクも英語表記は「Satow」としているのである。
    • さらに付け加えると、ボクの修士時代の指導教授ヘンリー・スミス先生を紹介してくれたのは、阿部先生だった。民衆宗教のイコノグラフィ(そのころは特に参詣曼荼羅に興味を持っていると言うと、スミス先生のところに相談に行けと言っていただいたのだ。それからスミス先生の指導を受けているうちに、大津絵に興味がシフトした後、最終的には江戸泥絵で修論を書くこととなる。で、そろそろ日本に帰るんだけれど、とスミス先生に相談したところ、それなら同志社の岸文和先生だろうということで、岸先生に紹介され、同志社のドクターに行くことになる。それから江戸泥絵→横浜写真→大正期芸術写真の風景表象三題噺で博論を書いて、今に至る。しかし、参詣曼荼羅→大津絵→泥絵→写真と、まあころころと変わってきたもんだ。でも、以前、某大学の日本美術史(正統派)の先生に、「でも、ある意味ブレてないよね」とは言われたけど。