『人類学と写真』
Anthropology and Photography, 1860-1920
- 作者: Elizabeth Edwards
- 出版社/メーカー: Yale University Press
- 発売日: 1994/03/23
- メディア: ペーパーバック
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- ジョナサン・ベンソール「前書き」
- 序論:歴史的、理論的パースペクティヴ
- ケース・スタディ
- フランク・スペンサー「19世紀後半における写真を人体測定に応用する試みについてのノート」
- エリザベス・エドワーズ「可視化された科学:アンダマン諸島におけるE・H・マン」
- ブライアン・ストリート「イギリスの一般向け人類学:他者の展示と他者の写真」
- ブライアン・W・ディッピー「他者の表象:北アメリカのインディアン」
- マーガレット・B・ブラックマン「『特殊な彫刻と建築装置』:ハイダ族インディアンの写真による民族史」
- アイラ・ジェンキンス「クワーキウーツルの写真家、ジョージ・ハント」
- H・L・セネウィラトナ「外見の消失:19世紀の写真に対する人類学的観察」
- マーサ・マッキンタイア、モーリーン・マッケンジー「文化的距離の類似物としての焦点距離」
- クリストファー・ピニー「バニヤンの木の下で:ウィリアム・クルックとカーストの写真的記述」
- ニコラス・ブラッドフォード「これは誰のポーズ?:南インドの写真=民族誌的なぞなぞ」
- ポール・ホッキングス「黄枝篇:リヴァーズの『トダ族』における写真の使用」
- ドナルド・テイラー「『愛すべき人間たち』:エヴラード・イム・トゥルンの写真」
- ヤン・ヴァンシナ「エミール・トーデイ(1876〜1931)とM・W・ヒルトン・シンプソンによるサンクル川とカサイ川流域探検の写真」
- ナツィーア・ハムーダ「アウレスの女性の二つの肖像写真」
- ジェームズ・C・ファリス「写真、権力と南ヌバ」
- グウィン・プリンス「19世紀後期の西ザンビアにおけるカメラの管理を巡る争い」
- アン・サルモンド「テ・トカンガ=ヌイ=ア=ノホの礼拝堂」
- ヴィヴィエンヌ・レー=エリス「トゥルカニーニの表象」
- リチャード・パンカースト「政治的イメージ:アフリカの往古の独立国におけるカメラの衝撃」
- ジュディス・ビニー「二点のマオリ族の肖像写真:〔写真〕メディアの採用」
- 結び
- イスカンダー・ミディン「歴史的イメージ:変容する受容者」
- ジェームズ・C・ファリス「人類学/写真への政治的入門書」
最近、進展著しい19世紀の写真の研究において、人類学写真というのは、いわば一つの起爆剤のようなものであった。「芸術的な」肖像写真の他者として、ポストコロニアル批評やジェンダー研究の影響下、監視とスペクタクルの問題、他者表象の問題、肖像と「内面」の問題、博物学と「タイプ」の問題、司法写真との関係などなど、肖像写真という枠組み自体を問い直す有効なツールであったに違いない。
人類学写真が問題となったのは、写真研究側からだけではなく、人類学という研究領域内部での研究の方法についての問い直しが真剣に行われたからという理由もあろう。なにしろ人類学程、帝国主義/植民地主義と深く関わって成り立ってきた学問はないだろうから。僕自身が問題としていきたい地理学写真の研究が、人類学と比べると、さほど進んでいないのは、何故だろうと考えてしまう(もちろん、地図との関係で写真は第二次的なものであったこともあろうし、地理学史自体もっと調べなければならないので、いい加減なことは云えないけど)。地理学も、国民国家の成立や植民地帝国の拡張に深く関わってきたはずなのに。
今日、紹介する論集は、「人類学と写真」というテーマにおいては、比較的早い時期に編集されたものであり、著者の殆どが人類学研究者であることからも、人類学内部での方法の問い直しが真摯であったことがよく分かる。
人類学と写真については、日本語で読める論集としては、『映像人類学の冒険 (serica archives)』。またid:mika_kobayashiさんによるブック・ガイド「人類学と写真」(本書の紹介も含む)も参照のこと。