石原友明展観覧報告

今日午前、最終日に駆け込みで、石原友明展@西宮大谷記念美術館に行ってきた。タイトルは、「i:imaginary number」。虚数i、すなわち自乗すると-1になるという幻の「私」である。出品点数、わずかに22点。こぢんまりした美術館とはいえ、一つの館をほぼまるごと使ってるんだから、この上なく贅沢なスペースの使い方だった。以下、おおまかな報告を。

美術館にはいるといきなり自動車が置いてあり、その向こうに作者がなにかを喋っている様子をスロー・モーション(おそらくは)で再生したヴィデオがプロジェクターで投影されているというインスタレーション。要するにドライヴ・イン・シアター。すでに運転席に人がいたので、助手席に乗り込まず、横で見る。後で人がいなくなってから乗り込んだけれど、いきなり厚顔無恥に助手席に乗り込んでしまってもよかったかと、今になってみれば思う。会話とかしたんだろうか。
一階の第一室には、さまざまな展示(美術館、二条城の人形、動物園)の前で作者が写り込んでいるセルフ・ポートレートが並ぶ。作者(セルフ)にフォーカスが合っているのが普通だが、このシリーズにおいては、作者がボケて、背景にフォーカスが合っている。中心であるはずの「セルフ」がむしろ夾雑物となっているのだ。まさに虚数としての「私」である。
二階に行くと靴を脱ぎ、インスタレーションのコーナーへ。真っ白な壁の向こうには古びたドアがある。開けると真っ赤な壁に点字があり、その翻訳が扉の内側にある。で、扉を閉じると真っ暗。「見ること」と「触ること」という問題が提示される。
右の部屋に行くと真鍮の正方形の板が敷き詰められており、その上には点字が浮き出ている。足で点字を感ずるという体験。もちろん足で触っても、理解できようがない:壁に貼られた翻訳を見るまでは。その上に立つと、上に吊られたシャンデリアとともに、僕の姿が映る。
左の部屋には、真空のガラス玉が宙づりになっている。この「私」の世界とまったく隔絶した世界が宙づりにされている。一瞬、赤瀬川原平の「世界の缶詰」、すなわち鮭の水煮缶を開け、中身を喰い、外側に貼られたラベルを内側に貼り直して、缶をハンダで再び密閉するという作品--缶の中が外で缶の外が内側になるという作品を比較対象として想起する。
次の部屋には再び点字の連作。板に浮き彫りになった点字に金箔が貼られたものや、巨大なレンズ様のガラス製物体に点字が浮き彫りにされているものなど。本来、触覚によってはじめて意味を伝達することが可能となるメディアを、視覚によって感知すること。知覚とは何か。
それに続く部屋には、最新作の、高倍率の顕微鏡で撮影した作者の身体の一部。一部といっても周縁的なもの、すなわち瘡蓋、血、陰毛、精液。たしかにセルフ・ポートレートだけど、サブジェクトとは全く関係のない「セルフ」。むしろ免疫における自己と他者=非自己みたいなもの。これだけでコンセプチュアル・アートとして成り立つだろうが、それを巨大サイズに引き伸ばすことによって、アブジェクトという属性までもが付け加えられる。すげえ。
最後の部屋の中央には、革で作られた「彫刻」が吊られている(吊られているもの第二弾--置かれるのではなく)。その向こうにはその「彫刻」を銜えたヌードの作者のセルフ・ポートレート写真が。さらにダメ押しが、作者の血液の一滴(表面張力によって円になりながらも端が壊れて流れ出している)を撮った写真。これも一種のセルフ・ポートレートである。ちなみに遠目では血で描かれた「ヒノマル」に見える。

とにかく色々考えなければいけない宿題が与えられた。