空間・場所・風景

一応書き終わってから一年くらい放置していた博士論文を、今月末に提出することにした。江戸泥絵、横浜写真、芸術写真における景観表象についての三題噺。もう余り手を加えないでおこうと思っていて、誤字脱字や表記方法、引用のチェックなどをしている。最終章は、サイードが、レヴィ=ストロースバシュラールとを援用して語る「心象地理」を解説するだけで終わるつもりだったけれど、やっぱりもう少し深くしたいと手を入れだした。というのも、W・J・T・ミッチェルがLandscape and Power*1の第二版を出すに当たって、「空間・場所・風景」などという序文を追加してしまっているから、これを紹介せずには終わらせられないだろう、やっぱり。その一部を下訳で紹介しよう。

空間、場所、風景を弁証法的な三項--さまざまな角度から起動=活性化〔activate〕される概念的構造--をなすものとして捉えられるかもしれない。
場所が特定の位置〔location〕のことであるのなら、空間は「実践された場所」--運動、活動、物語、記号などにより活性化する所〔site〕--である。
そして風景とは、イメージや〈光景〔sight〕〉として立ち現れる所である。よって、ニューヨークのセントラル・パークは、地球上のある特定の場所に
位置している。それは数え切れないほどの活動や実践が行われる所であり、ヨーロッパ風景画を受け継ぐ一連のピクチャレスクなタブロー群、あるいは
「風景」として消費される(そしてそのように消費されるように設計されている)のである。この三項のどれかが論理的に、時系列的に先立つというこ
とはない。空間的な活動が場所を生産し、修整しているともいえるであろうし、場所の属性がある空間的な活動を可能にし、それ以外を疎外していると
もいえよう(従って、空間とは能動的で動態的な言葉であるというド・セルトーの考えにも関わらず、場所も一種の行為体〔agency〕であるともみな
されよう)。人は、風景において特定の場所とはじめて認識的に出会うのであるともいえるし、風景を見ることとは、その場所のもつ空間的なヴェクト
ルを理解することであるともいえよう(従って風景を理解することには、風景の具える物語の流れや象徴的な特徴を読解すること--あるいは読解でき
ないこと--が含まれるともいえるだろう)。

となると、ド・セルトーとルフェーブルも押さえなければいけないし、こんな間際になって泥沼に足を踏み入れようとしているのかも・・・。本当ならさらにレルフやトゥアンの現象学的地理学や、ソジャやハーヴェイのマルクス主義地理学も紹介しなければいけないんだろうが。

*1:第一版の序文は、以前ここ→http://www.think-photo.net/review_translation/satow/landscape_power.htmlで紹介した。