ボブ・マーリーとの和解

ボブ・マーリーに関しては、ずっとアンビヴァレントな感情を抱いてきた。
ポップ・グループやクラッシュでレゲエに出会った*1僕は、御多分に漏れずボブ・マーリーを聴いた。大名盤『ライヴ!+1』だった。非常に感動した覚えがある。
でも、レゲエに本格的にはまっていくのは、スレン・テンやスタ=ラグなどのトラックのダンスホールが流行りはじめた頃であった。それから、80年代のルーツ・ラディックスをバック・バンドとしたラヴァーズ・ロック、DJなどの作品群やキング・タビーリー・ペリー、サイエンティスト、イギリスのマッド・プロフェッサー、デニス・ボーヴェルなどのダブ*2にずぶずぶとはまっていった。その頃、レゲエの店でDJ(レゲエ風に言えばセレクタ)の猿真似のようなことをやり始めた。掛けるのは、ダンスホールとダブ、それにヒップ・ホップ、ファンク、ポストパンクを織り交ぜるというスタイルであった。
でも酔客が寄ってきてリクエストするのは、ボブ・マーリー(それとマキシ・プリースト)ばっかり。もっと格好良い、コアなレゲエを掛けているつもりだった僕としては、それがたまらなかった。とは言っても外面だけは良かったので、3回に1回くらいはリクエストには応じていたけど。今とは違って、その頃のレゲエのパブリック・イメージといえば、圧倒的にボブ・マーリーであった。あと、マーリーを信奉している人たちの身振りがどうも苦手だったということもある。だいたい、「ラスタ」で、自然食を食べて、新宿二丁目の老舗クラブにあつまって、「愛と平和」を口にする人々がどうも苦手だったのである。僕も20代前半で、若かったし。「レゲエっちゅうのは、もっとキツいもんや」と思って。「日本人がラスタファリアン*3ってどういうこっちゃ」とか。ラスタ・カラー(アフリカン・トリコロール=エチオピア国旗の色)は絶対身に付けなかったし、ドレッドにしようと思ったこともない。
それから15年ほど経って、丸くなった僕は、久しぶりにボブ・マーリーを聴こうと思い、『 キャッチ・ア・ファイアー+2』と、前掲『ライヴ!』と、ベスト盤を買った*4。『ライヴ!』の「ノー・ウーマン・ノー・クライ」は、やっぱり泣けた。でも、僕にとっては「レゲエ」には聞こえなかった。凄く「ロック」だった。その点に関しては、ポール・ギルロイの『ユニオン・ジャックには黒はない--人種とネーションの文化政治学』の指摘するアイランド・レーベルの戦略とも関わるだろう。

アイランド・レコードもまた、黒人アーティストと契約し、彼らのつくり出す音楽とイメージを、
白人のロック・オーディエンスの期待に添うよう作り替えることによって、彼らをポップ・スター
として売り出していく動きの最先端に立っていた。ボブ・マーリー――1972年から彼が没する81
年までアイランドと契約していた――は、そのマーケティングの過程を如実に示す例であり、その
手法は、アイランドが契約していた他の(ロックの視点から見れば)マイナーなアーティスト――
ヘプトーンズやバーニング・スピア等――の場合にも繰り返された。但し、より小規模で、さほど
成功は収めなかったものの。
Paul Gilroy, There Ain't No Black in the Union Jack: The Cultural Politics of Race and Nation (Black Culture and Literature Series)

やっぱりボブさんとの完全な和解の道は、もう少し続きそう。

*1:本当のはじめての出会いは、ブロンディの「夢見るNo. 1」、すなわち"Tide is High"だった。

*2:ここで再びポップ・グループ人脈のエイドリアン・シャーウッドの硬質なインダストリアル・ダブに出会いはまりまくることとなる

*3:アフリカ回帰運動(ブラック・シオニズム)からはじまったキリスト教の一派

*4:スタジオ・ワン時代のベスト『Greatest Hits at Studio One』だけは持っていたけど