『美術京都』

『美術京都』35号(中信美術奨励基金、2005年10月)に、拙論「伝統の地政学:世紀転換期における京都性の構築」が掲載されました。以下は、その序文。

 大成功を収めたJR東海による「そうだ京都、行こう」キャンペーンの広告コピーに、「『これからのニッポンは』の悩みには、『むかしむかしのニッポン』がお答えします」とある。この広告は、東京から京都観光に向かうときに、東海道新幹線を使うことを消費者に勧めるものであった。ということは「これからのニッポン」とは東京であり、「むかしむかしのニッポン」とは京都であると理解して間違いないであろう。すなわち東京という場所は、未来のメタファーであり、京都は過去のメタファーであるといえるであろうし、現在・未来の不具合を治癒する力として過去が持ち出されているといえよう。ここにおいて京都らしさ――京都性――とは、過去の歴史と結びついたとされる。とはいえ、京都の全ての場所が過去と結びついている訳はない。むしろ、この京都を過去と結びつけているのは、広告コピーというテクストと写真というイメージである。こうしたテクストやイメージを、本稿ではトポグラフィと呼びたいと思う。
 「トポグラフィ」とは、通常は「地形学」あるいは「地誌」というように訳されている単語であるが、本稿では、「場所を記述すること」という本来の意味に戻って使いたい。ある特定の場所をテクストやイメージなどで記述し、表象するという行為は、その場所に何らかの意味を与える――あるいは場所性そのものを恣意的に構築する――行為であると考えるからである。したがって、「京都性」なるものも、トポグラフィにおいて構築されると考えられる。このようにある特定の場所に恣意的な意味を付与する行為を、エドワード・サイード(Edward W. Said 一九三五〜二〇〇三年)は、「心象地理(imaginative geography)」と呼んだ。サイードの批判するオリエンタリズムが、そうした心象地理の代表である訳であるが、これは京都性に関する言説にも当てはまるであろう。本稿の目指すところは、心象地理の中での京都、すなわち京都性という言説の起源を一九世紀から二〇世紀への転換期に探り、その起源の構築に関わるさまざまな力を分析することにある。本稿では、とくに世紀転換期の代表的総合雑誌である『太陽』における京都性に関するトポグラフィに注目したい。
 第一章では、創刊期の『太陽』――日本初の総合雑誌――に注目して、その基本的な性格を紹介する。特に注目するのは、創刊以来の「地理」欄の存在である。第二章では、近代の雑誌メディアにおいて、風景がどのように消費されるのかについて考察する。とくに総合雑誌における写真図版の機能に着目して、それが博覧会や観光などの近代的な移動的視覚の一種として位置付けられることを指摘したい。第三章では、京都と平安文化を結びつける言説の起源を、近代国民国家イデオロギー的なトポグラフィのなかに見いだす。そこで注目されるのは、明治初年における「二つの首都」構想である。第四章では、一八九五年における平安京奠都千百年紀念祭に着目し、中央によって形づくられた「京都性」を、京都自体が流用していく過程を考察したい。

  • 第一章 『太陽』と地理学的想像力
  • 第二章 消費される風景
  • 第三章 過去に定位される都市
  • 第四章 伝統の地政学

『美術京都』という雑誌は、京都中央信用金庫という銀行が、企業メセナとして中信美術奨励基金という財団を作っていて(mecenavi.info参照)、そこが発行している定期刊行物なんですが、さて、この雑誌がどこで手に入るかというと・・・。おそらく一般書店では売ってないと思います。多分、京都中央信用金庫の支店にいけば置いてあると思うけれど。ちなみに以下の図書館には、入っているようです。→http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN10045782