消滅するものの言説
昨日のエントリを承けて、「伝統の創出」論の成果の一つを紹介したい。コメント欄で言及された『「里」という思想 (新潮選書)』とも重なる問題だろう。『消滅の言説』という書名は、ジェームズ・クリフォードのいう「エントロピックな語り」の影響下にあるのだろう。「エントロピックな語り」とは、すなわち民族誌において、対象となる文化が西洋・近代文明に犯され、消滅しそうになっており、それをすくい上げる(サルヴェージする)ことが民族学・人類学の使命であるという、一見は高邁な、実のところ非常にコロニアルな思想のことをいう。柳田国男以降成立した日本民俗学の語り方--果ては、さまざまな日本論まで--を批判的に再考していくのが、本書の目的である。その対象は、驚くほど多岐に亘る。柳田民俗学はもとより、旧国鉄による「ディスカバー・ジャパン」キャンペーン、恐山のイタコ、大衆演劇と。目の付けどころが冴えている。「消滅するものを保存する言説」ではなく、「消滅していくと思われているもののしたたかなな言葉」を掘り起こすのである。
翻訳とは面白いもので、時に原語では曖昧にされている意味をほじくり出すことが出来る。ここでいえば「民俗学」という言葉である。アイヴィーが当てる訳語は、「Nativist Ethnology」すなわち「国学的民俗学」である。ちなみにハリー・ハルトゥーニアンは、「New Nativism(新国学)」という訳語を与えている。Nativismという言葉を引くと「《文化変容への反発としての》 土着文化復興[保護]」(リーダーズ英和辞典)と出てくるが、日本史の文脈では、Nativismといえば、国学のことである。国学との連続性、民俗学の近代性、ナショナリストな側面といった側面がこの訳語からは出てくる。
ぼくが以前、大正期の芸術写真に写された山村風景におけるノスタルジアの政治性について調べたとき(「郷愁のトポグラフィー:一九一〇年代日本における風景写真の政治学」『文化学年報』51輯)、この本における「無気味なもの」(フロイト)としての「故郷」=「モダニティの無気味な他者」という論は随分参考にした。
この本とか、翻訳しておいた方がいいと思うんだけど、翻訳のプロジェクトとかないのかな。誰か共訳しませんか?
マリリン・アイヴィー『消滅するものの言説――モダニティ・幻像・日本』
- 国民=文化的な幻影とモダニティの敗北
- 知の道程――日本を変容〔変化=形成trans-figure〕させる
- 国民=文化の旅
- 「私自身」を発見する
- エキゾティック・ジャパン
- ネオ=ジャパネスク
- Re:新日本学
- 怖ろしき不足――『遠野物語』と民俗学〔国学的民族学〕の起源
- 文明とその残余
- 音声と書記の距離
- 近代の無気味なもの
- 決定不可能な権威
- 起源的な研究領域
- 回帰するナラティヴ、無気味なトポグラフィ
- 亡霊的な顕現――恐山の口寄せ
- 記憶することとその他者
- 過剰の境界――境界設定、奉納、ごみ
- 機械の中の亡霊
- 声を分割する
- トランス的な効果――悼と予期
- 方言と違犯
- 演劇的交差、資本主義の夢
- 低予算歌舞伎とその契約
- グランド・ショー
- 二重の罪、ジェンダー化された異装
- カウンター・ナラティヴと文彩
- 魅力の力
- はかない贈り物
- 反復と贖罪についてのあとがき
原書の目次はこちらで見ることができる→http://www.amazon.com/gp/reader/0226388336/ref=sib_rdr_toc/102-1159557-6046548?%5Fencoding=UTF8&p=S009&j=0#reader-page
Discourses of the Vanishing: Modernity, Phantasm, Japan
- 作者: Marilyn Ivy
- 出版社/メーカー: University Of Chicago Press
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