風景/landscape

「風景」という言葉ほど厄介なものはない。
クラウスの論を読んでいて、どうも引っかかるのが、「風景/建築」の二項対立を所与のものとして、そこには疑念を差し挟んでいないように見えるところである。そこで感じられるのは、ポストモダニズムが批判してきたはずの「自然/文化」という二項対立なんじゃないか(クラウスにおいては、風景に場の表象という意味はあまりなく、むしろ人工物ではない自然くらいの意味で使われているようにも思える)。
もちろん、クラウスの目論見は、モダニズムにおける「彫刻」という概念を脱構築することだから、こうした引っかかりはいちゃもんに過ぎないのかも知れない。でも、もう一つ、この非常に面白い論文に対して文句があるとすると、やはり「アート」内部で収まってしまっているということ。
で、昨日作ってみた「トポグラフィの四角形」というのは、そのあたりをずらすことによって、何か見えてくるんじゃないかという思いからできたものである。要するにクラウスにおいては、s1/s2という疑いのもてない場所に置かれていた「建築/風景」を「複合軸S/中立軸〜S」に置くことによって、クラウスの論理的な操作を踏襲しながら、クラウスの図式をさまざまな視覚文化に開いていくことが可能になってくるのではないかと思う。
じゃあ、そのずらされた図式における「風景」とは何かとなってくる。
僕の定義は、風景とは、「ある一つの固定した主体の視点から、距離を置いて見られた(あるいは三次元空間を一定のコードに従って二次元に変換され表象された)環境」というものである。だから「風景」は、風景画や風景写真のようなモノでもあり得るし、あるいは「見る」行為だけであってもよい(「見る」ことも一種の表象と考えられるから)。ピクチャレスクの概念を検討すれば分かるように、風景を見ると言うことは、表象を通して/として見るということなのである。これは英語の(他のヨーロッパ系言語でもそうだが)「landscape」は、前者(すなわち「絵」)から発展し、のちに後者(すなわち目の前の土地の広がり)の意味を持つようになったという言葉の歴史とも一致する。
となると「風景」とは、ルネサンス以降発展した幾何学的遠近法というシステムにおいて、構築されたものということができる。これは、柄谷行人が『日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫)』で指摘していることと一緒である。柄谷行人によれば、近世以前の人々は、〈風景〉に対峙したとき、「ある先験的な概念」を見ていたという。「実朝も芭蕉もけっして『風景』をみたのではない。彼らにとって、風景は言葉であり、過去の文学にほかならなかった」。
柄谷もいうように、風景を見る/表象することによって、はじめて「見る私」--内面を具えた近代的主体--が立ち上がってくる。そしてそれは、ある歴史的、文化的コンテクストのなかで構築されたものであるとおもう。そういった意味において、たとえば近代以前の「名所絵」や「山水」を「風景」と言ってしまうことには、ナイーヴさとともに、イデオロギーによる隠蔽を感じる。
だから僕が「トポグラフィ」という言葉を使うのは、それが「風景」よりも、よりニュートラルな上位概念であると思うからである。
ただ、遠近法導入以前に本当に「風景」はなかったのか。これも言えない。難しい話である。過去のテクストを通して名所を見るというのと、ピクチャレスクとどう違うのか。たとえば《当麻曼荼羅》に描かれた浄土。もちろん空想の場であるが、死後そこに行きたいと念じてその絵を見る信徒のまなざしって、「風景」とどう違うのか(風景を「実景」に押し込めるのは、これもまたイデオロギー的であると思う)。「穢土」という固定された視点に立って、「浄土」という客体を見るというのは「風景」じゃないのか。確かに近代的主体とは違うにせよ、阿弥陀如来のまなざしに見つめられる(従属する=subject)ことによって、近代的主体とは違う一種の中世的、宗教的な主体(subject)が立ち上がっていたんじゃないのか(この辺り、加須屋誠さんに聞いてみたいところ)。
ただ、当面は、「風景とは遠近法と主体の問題に深く関わる近代的な構築物である」という定義でやっていくけど、上記の問題は恒に考えておかなくてはならないだろう。
もう一回言うけど、「風景」って厄介である。えらいもんに関わったなと後悔することもしばしば。
このややこしさ/困難から逃げることなく、そのまんま提示するのが、ミッチェルによる「風景画のテーゼ」(「帝国の風景」『10+1 No.9 特集=風景/ランドスケープ (Spring 1997)』。ただしちょっと改変しています)である。とくに「風景」を「貨幣」や「イデオロギー」のはたらきに似たものという指摘は、流石。

  1. 風景とは、芸術ジャンルではなく媒体である。
  2. 風景とは、人間と自然との、自己と他者との交換のための媒体である。したがってそれは貨幣に似ている。それ自体では意味を持たないが、価値の潜在的無限性を表現しているものである。
  3. 風景とは、貨幣と同様、その価値の現実的な基盤を隠蔽する社会的ヒエログリフである。その隠蔽は、慣習の自然化と自然の慣習化によって実現される。
  4. 風景とは、自然景観〔scene〕が文化によって媒介されたものである。表象された空間であると同時に現前された空間であり、シニフィアンであると同時にシニフィエであり、フレームであると同時にフレームの内部であり、リアルな場であると同時にシミュラークルであり、パッケージであると同時にパッケージ内の商品である。
  5. 風景とは、すべての文化に存在する媒体である。
  6. 風景とは、ヨーロッパ帝国主義に付随する、特殊歴史的な構成体である。
  7. 第5テーゼと第6テーゼは矛盾するものではない。
  8. 風景とは、消尽された媒体であり、芸術表現の様式としてはもはや有効なものではない。人生と同様に風景は退屈なものであるが、そう言ってはならない。
  9. 第8テーゼによって参照された風景は、第6テーゼのものと同一である。

5,6と来て7で落とされたときには、頭がパンクするかと思った。