デレク・ベイリーと空間

だから死んだからって、CDを買うのは何だかなぁと我ながら思うが、ある作者の死というのは、一つのモーメントとして人に復習をさせる良い機会にはなるってことで。

デュオ&トリオ・インプロヴィゼイション(紙ジャケット仕様)

デュオ&トリオ・インプロヴィゼイション(紙ジャケット仕様)

批評家、間章が企画したセッション。ベイリーを日本に呼んで、当時の最新鋭の即興演奏家と掛け合わそうというもの。参加者は、ベイリー(g)、近藤等則(tp)、阿部薫(as, hca)、高木元輝(ts, as, ss)、吉沢元治(b)、土取利行(ds, per)という錚々たる面子。
何だろうね。インプロヴァイズド・ミュージックというかフリー・ミュージックというのは、断片的にしか聞いてないから、印象を述べるだけで、理論的、実証的な裏付けのあることは言えないけど。やっぱ「空間」かな、キーは。アルバート・アイラーセシル・テイラーを聴いてる時みたいな「音に飲み込まれる感じ」ではなく、何か音が空間に丁寧に配置されていくさまを感じ取るっていうか。特に土取とのデュオは、どの音がドラムでどの音がギターか分からなくなっていき、それぞれ楽器音の特性が抽象化されて混じり合い、非常に気持ちいい。ドラムもパタパタと軽く叩かれてるし、またリム・ショットの音が多用される事で、ベイリーのサステインのない高音部を中心とした演奏と相まって、何かミニマル。
といってオーネット・コールマンの腰砕け感とは違う。オーネットのは、あの変なフレージングの「流れ」のなかで、メロディーがずれていく感じを楽しむっていう聴取法だと思うけど、ここでは、時間の「流れ」はない。何となくグリッド的な「空間」のなかに「音」が置かれていく--陳列されていく--って感じがする。「ミュージック」ではなく「サウンド」へというような転回がここにもあったのかな。さまざまな「音響論的転回」(こんな言葉あるんかなぁ)の試みの一つなんだろうか。
全然違う話に聞こえるかも知れないが、以前ヘッドホンでキング・タビーを聴いていて、ダブの楽しみって、時間的なものである音楽が、単なる音響処理によって「空間」として知覚されてしまうところにあるんじゃないかと考えてたことがある。もちろん、音は時間のなかで発せられる訳で、空間のなかに置かれる訳じゃないんだけど、今まで鳴っていたベースの音がふっとなくなるというのは、「不在」という空間的なメタファーで捉えられるし、また実際に発音された音そのものではなく、リヴァーヴ処理によって音の残響と減衰が前景化されることによって、音と音が「空間」のなかでの布置というものとして捉えられてしまう。音を空間的なメタファーで語らせる装置がダブなんかなと思っていた。
こないだmixiの方で、fukayaさん(コメント欄の常連)と「スティール・パルスって構成主義レゲエだ」という話で盛り上がっていたんだけど、その時fukayaさんが、「スクリーントーンを切って貼って、隙間を生かしつつ、重ねていったイラストような」という比喩を用いていたのも、やっぱり空間的なメタファー(「ような」だから直喩か)だし、ついでにいうとクラフトワークとか、ある種の現代音楽(例をぱっと挙げられないのがくやしいけど)にもこうした空間指向は見られると思う。
で、ベイリーのギターも似たようなところがあるような気がする。間章が、ライナーノートで、ベイリーのギターに「名状しがたい楽しさとリラクシゼーション」を聞き取っているのも、ベイリーの音の「空間性」のことを云っていたのかな。
以上、感想。こういう音も偶には聴いておかないとと思った。


間章のライナーノート(「デレク・ベイリーのまばゆさの中から」)についても一言。まるでアジビラのような文章であり、何かシチュアニストのような匂いもして、血が沸き立つのを感じるけれど、今読むと、あまりにも「音」について語っていないのが目に付いてしまう。何回も繰り返される「コードからの脱却」「意味と意味論の排除」というフレーズも、モダニズム言説をなぞっているだけのように聞こえてしまうし、即興演奏とは「生そのものの現前」というのも何か制作者を聖化しすぎているように感じる(まあこれはベイリー自信の言葉に乗っかっているんだけど)。でも、面白いのは以下の指摘。

私はもう10年の間ジャズの批評を行ってきた。そして私は次第にジャズとはひとつの国家でありそれは亡びるだろうし、亡ばねばならないと考えるようになった。人はアイデンティティーに固執し過ぎる事によって制度の補完者となってゆき自己に固執し過ぎる事によって制度的な意味での右翼ファシストになっていく。そしてジャズメンは常にジャズによって守られてゆくのだ。

まるで、アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ)』のような指摘である(丁度同じ年かな?)。「ジャズ」とは、音のスタイルや「精神」などの本質的なもの(ジャズのアイデンティティ)によって定義されるのではなく、「ジャズ」という言葉によってのみ立ち上がる、あるいはジャズを制作/演奏者とオーディエンスの共同体によって作られる、まさに構築体であるということを指摘していたように読める。
あと、やっぱ言葉の作りかたは巧いな。「さわやかなアナーキズム」って、まさにその通りだと思う。こういう音なりイメージなりの特徴を簡潔に捉えるフレーズって、なかなか難しく、いつも苦労するから、勉強になる。