町衆

朝、テレビを見てたら和菓子の話をしていて、「京の町衆」なんてことを云っていた。想定しているのは、どうやら江戸期の話らしい。だ〜か〜らぁ〜、いつまでそんなことを云っているの。
何を朝からぶつぶつ文句をたれているかというと、「町衆」って云うのは、応仁の乱以降、京都の政権が破綻した中で、上京/下京と別れて(「二つの都」という言い方もする)、それぞれが住民による自治をはじめたという状況があって、そうした自治の主体を林屋辰三郎が『町衆―京都における「市民」形成史 (中公文庫)』(1964)で、「町衆」と定義したという経緯を全く無視しているからである。で、林屋に云わせると、町衆というのは、織豊政権から徳川期に至って骨抜きにされ、「町人」に成り下がってしまった。だから「町衆」ってのは、ある特定の歴史的なコンテクスト--中世末期の京--のなかだけで、使用することが可能な言葉だと僕は理解している。
1520年代〜30年代の町田本(三条本、歴博甲本とも→http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/rakutyuu/)《洛中洛外図》には、表象されているのは、確かに「町衆」の京であるという。上京(西陣辺り)、下京(祇園会の鉾町辺り)の中心部が塀で囲われ、武家ヘゲモニーから独立した対抗的なものであったことが分かる。でも、たとえば上杉本(狩野永徳筆→[伝国の杜]米沢市上杉博物館/上杉本洛中洛外図屏風)の《洛中洛外図》(1570年代)で描かれているのは、織田政権下における近世的秩序によって再構成された京であり、すでにそこには「町衆」はいないはずである。

(追記)テクストをきちんと読み直したら、近世的「町人」の成立は元禄頃に設定されていた。だから「上杉本」の時点では、「町衆」はまだ存在していたことになる。ただし、町組(都市構造)自体は、ドラスティックな変容を遂げた後なので、上で指摘した変化があったことには変わりはない。ただこの時期の「町衆」は、以前とは違い、一方は門閥商人という特権階級になり、もう一方は、強くなっていく封建支配のなかに組み込まれていくと林屋は主張している。

林田は、その副題からも分かるように、明らかに近代的(あるいは戦後民主主義的)な「市民」(それは未だ達成されていない)の祖型、あるいは模範(あるいは一種のユートピア)として、「町衆」というものを構築したのだろう。中世的権力が近世的権力に取って代わられるちょっとした間隙に奇跡的に成立し、近世的権力によって潰されてしまった「市民」(実際に言及されてはいないが、パリ・コミューンを思い起こさせる)という言説。勿論そこにはさまざまな問題点もあろうが、少なくとも彼は、超歴史的な概念として「町衆」を構築したのではなかった。それを無視して(というか誰も読んでないんだろうが)、京都の政治家や財界人とかが訳知り顔で「今日に続く町衆の伝統」なんてことを言い出すと、むかつく訳である。


ちなみに「町衆」を「まちしゅう」というのは間違いで、あれは「ちょうしゅう」と読むべきだというのを、かつて歴史研究者のヘンリー・スミス師に聞いた(もともとの出典は今思い出せない)。その理由は、当時の京では、自治組織としての都市の最小単位である「町」を「ちょう」と訓じていたという記録があるからだそうだ。確かに今でも、京都の町会などでは「うちの町」と言うときは、まず「ちょう」と読んでいる。
話は逸れるが、江戸でも「まち」と「ちょう」は性格が違ったらしい。つまり、原則として、「まち」とは武家地のことであり(例えば「御徒町(おかちまち)」)、「ちょう」は町人地だった(例えば「駿河(するがちょう)」)。
以上の事は、修士の頃(だから10年くらい前)に、近世の都市史を勉強する段階で知った事で、その後、どんな学説が出ているかは、怠惰にして追っかけていない。間違いがあれば、コメントしてください。やっぱり「まちしゅう」と読んでいいんだという説もあると聞いた事もあるし。