柳宗悦と民画

以前、ちらっと書いた拙文(短いです)が掲載されている『別冊太陽』がアマゾンに登録されていたので、もう一回紹介を。

柳宗悦の世界 (別冊太陽)

柳宗悦の世界 (別冊太陽)

僕が書いたのは、「泥絵の世界」(128頁)という一頁のコラム。幕末頃に描かれた「泥絵」と呼ばれる透視図法を用いた安価で無銘の肉筆景観図についての紹介と、柳宗悦がそれを「民画」としてどのように評価したのかを書いています。


ただし、短いコラムなので、紙幅の関係から、書けなかったことを少し(書けなかったことをブログに書くってものどうかとは思うが)。上記の通り、柳は泥絵を大津絵と並ぶ「民衆絵画」として評価している。柳が泥絵をそのようにカテゴライズする理由は、無銘性と、その「稚拙さ」によるところが多いと思われるが、僕自身の意見は、多少違う。問題は、柳の言う「民衆」という概念である。
「民衆」とは、20世紀前半の言説空間において、いわば近代の他者として「発見」された構築物の謂である(柳田国男民俗学、権田保之助の盛り場研究、横山源之助の都市下層民の研究などもそのように考えられる)。それ自身、非常に有効なモダニティ批判のツールであったことは確かだが、問題は柳が「民衆」を超歴史的な存在として想定してしまっていることにある。もう少し詳しく言えば、柳の言う「民衆」とは、地方(非=都市)の農業民を中心とした、均一な存在なのである。その結果、「民衆」内部の多様性は捨象される。
排除されるのは、「歴史」だけではなく、都市居住者もその一つである。たとえば柳は、浮世絵版画を「民画」のうちには入れていない。その理由は、浮世絵の制作者の有名性であったり、浮世絵の制作プロセスのプロト産業性であったりするのだが、もう一つ重要なのが、浮世絵が都市で生産され、消費されているということであった。
柳にとって、都市性とは、産業性や有名性と並んで、忌避すべきものの一つであった。なぜならば「民衆」とは、それらを批判するための「他者」として描かれたものであったと考えられるからである。
僕自身は、泥絵とはあくまでも「都市」のものであると考えている。それは泥絵が江戸や京などを主題として多く描いているからだけではない。泥絵とは、都市に居住する制作者によって作られ、地方都市--城下町--に棲む人々--多くは下級武士とその周辺にいる人々と想定される--によって受容されたものと考えられるからである。泥絵とは、都市と都市の人的、物的コミュニケーションのなかで流通し、機能したものだと僕自身は考えている。だから、泥絵を「民画」と名指すことは、泥絵の果たした重要な働きを見過ごしてしまうことに繋がると思う。
同じように、大津絵も「民画」であるかどうか疑わしい。僕は大津絵の研究者ではないので、ちゃんとしたことは言えないが、大津絵が、たとえば歌川国芳などの浮世絵師や、富岡鉄斎などの文人画師、あるいは四条派の絵師などによって流用されて、都市において流通する様を検証することで、何か見つかるのではないかと思っている。
「美術」の他者としての「民芸」。この問題は相当に重要であると思う。


この辺りの話、今手直ししていて、近い内に何らかの形で公開しようと思っている博士論文で詳しく書いています。その内。同志社の図書館には、請求番号704||S9431||1で入っています→佐藤守弘『トポグラフィの視覚文化論 : 19世紀後期から20世紀初頭の日本における景観表象の諸相』(同志社大学博士論文(甲)第241号、2005年)国会図書館にも納本されているはずですけど、OPACにはまだ引っかかりません。
ちなみに泥絵と謂われるものは、こういう感じの絵。江戸のもので、画題は浅草寺