永ちゃん
昨夜放映されたNHKスペシャル「永ちゃん 俺たちはもう一度走れるだろうか」(http://www.nhk.or.jp/special/schedule.html)はなかなか面白い番組であった。40代になってしまった矢沢永吉ファンのドキュメンタリーと矢沢自身のインタヴューを、作家の重松清がまとめるというもの。
まだ、うまくまとめられないので、思いつきだけ。
- ある時期の若者にとっては、矢沢というのは、圧倒的な影響力を持ちながら、音楽そのもののことはほとんど語られないという特異な場所にいる。昨日の番組でも、矢沢の音楽に関しては、一切触れられなかった。
- ロックン・ロールからゴージャスなアメリカン・ロック(ドゥービーとかとやってたっけ)と、「音楽性」に一貫したものが見られないというのもあっただろう。「キャロル時代」を評価するファン(僕も含めて)が、「E. YAZAWA」を敬遠するのは、この辺りか?
- 「矢沢的なもの」というのがあったのは確か。教育的な発言、ファッション、現世肯定的な「生き方」なども含めて、「ツッパリ」「ヤンキー」「不良」文化の中心にいたし。そしてその支持層は、日本におけるユース・カルチャーという点からいえば、パンクよりモッズよりより広範に広がっている「トライブ」であったと思う。
- 矢沢的なものは、クールスRCからクリーム・ソーダ的ロカビリー・ファッション、さらには一種の矢沢のパロディとしての横浜銀蝿が受けつぐことになる。今はなんだろう。B'zか?
- そうしたさまざまな、音楽以外の要素が含まれることが、「真正」ではないとされたのだろうか。音楽学の対象ではなく、社会学の対象としての矢沢。
- 「矢沢」的なものの対極にあったのが、「はっぴぃえんど」的なものであった。都会的で、芸術的で、「音楽」として評価されるもの。
- ポップスの作り手としては、矢沢は、結構、大瀧影一レヴェルの巧妙さを持った作曲家だと思う。「アイ・ラブ・ユーOK」とか。異論は当然多くあるだろうが。リズム&ブルーズやロックとエンカ的なものの組み合わせ方の巧さ(萩原哲晶なみ、といったら言い過ぎか)。で、大瀧(および大瀧が「再発見」した萩原)は、その幅広い音楽性という点で評価されているのに、矢沢の場合は、節操がないかのように語られる。何故なんだろうという問題が、重要かも知れない。・・・これって、「パクリ」と「オマージュ」を分かつものは何?という問題とも通底するか。
- キャロル的な人脈の中から、横山剣という非常に巧妙な音楽制作者が出てきたというのは、注目に値するだろう。はっぴぃえんど人脈からではなく。
- ちなみに、キャロル時代の矢沢のベースの演奏力というのは凄いと思う。バンド全体を引っ張るロックン・ロールのベースの見本。The ピーズのハルさんは、相当影響を受けたみたい。
- でも、矢沢の「音楽」的な面を評価することが、矢沢を正当に評価することになるかというとやっぱり違う気がする。
- 『成りあがり How to be BIG―矢沢永吉激論集 (角川文庫)』を仕掛けたのが糸井重里であるということは、80年代における矢沢の問題を考える上で重要かも知れない。糸井って、どっちかというとはっぴぃえんど→YMO系統の人脈って感じだけど、矢沢のパブリック・イメージ形成において、圧倒的に重要なあの本を作っている。YMOと矢沢って、80s的なものの裏表か? そういえば、スネークマン・ショーでも矢沢パロディって散々あったなぁ。