柳田国男研究論集

id:monodoiさんより、以下の研究誌を御恵送賜る。感謝。

去年行われた柳田の生誕130周年記念シンポジウム「京都で読む柳田国男」での研究発表をもとにした論文が中心。
monodoiさんによる論文「三つ子に鮒鮨--昭和七年・京都における民俗学/土俗学」(43-55)をまずは読む。柳田は、それまで「土俗学」と言いならわされていた研究領域を、「民俗学」と言い換えた。その言い換えに潜むものを読み解くのが、本論の目的であるという。「土俗学」とは、本来は、ethnographyあるいはethnologyの訳語として使われていたものだが、それを「他者」の研究--「旅人の採集」--として考え、それに対する対立項として、自文化研究を旨とする研究を「民俗学」と名付けた。

柳田にとって「土俗学」とは、自文化に対する異文化研究(エスノグラフィ)の立場を示す。その区分は単純に日本国内/国外の違いではない。基本的には「私たち/彼等」の違いなのである(50)。

アンチ・アカデミズム(アマチュアリズム? 文人的?)を標榜する土俗学をいわば排除することによって、柳田(「私たち」)が見つけた道が、「野のアカデミズム」という第三の道であったのだという。
興味を持ったのは、「日本=自文化」を研究の対象とする民俗学の問題もさることながら、排除された「土俗学」の行方である。本論で挙げられているように、「民俗学」成立以後も、京都で活動していた「土俗同好会」というグループはあったものの、それは「民族学」と名前を変えていくことになり、その対象は、「世界」すなわち「台湾・朝鮮半島さらに太平洋の諸地域」に移行していくという。
「世界」と言いながら、その対象は明らかに日本が植民地とした/あるいはしようとした地域であることは興味深い。では柳田は、コロニアリズムを拒否/隠蔽しようとしたのかという疑問も出てくる。帝国の周縁を担当する「土俗/民族学」と、帝国内部を担当する「民俗学」という棲み分けの含意するものは何なのか。非常に興味深い。