アベサダと見立て

昨日載せた写真のような途中で切断された木や電柱を、トマソン分類学では、「アベサダ」と分類するだろう。高名なサクソフォーン奏者ではない(古いネタ)。もちろん劇団大人計画の人でもない。『愛のコリーダ』のモデルとなったあの事件から来ている→阿部定 - Wikipedia
トマソン分類学トマソン - Wikipedia参照)においては、「無用門」など記述的なものや「アタゴ」の如く発見地の名称を取ったものなど、換喩/提喩的なものが多い。でも、このタイプや、「カステラ」「生き埋め」などは、隠喩的な名付け方といっていい。何かに似ているという、すなわち一種の「見立て」である。
しかし、「見立て」というのは、物件に、別の「意味」を付与する行為であり、いわば物件をもう一つの意味の世界に回収する行為であるとも言える。そういう点で、見立てとは、トマソンの特徴の一つというよりは、むしろ特異なものである。トマソンとは、第一号の「純粋階段」の例からも解るように意味のブラック・ホールであって、意味の世界に亀裂を生じさせ、時空をねじ曲げるところが面白いのであって、それをもう一つの意味の体系に回収することは、もしかしたらトマソンを危うくするものではなかったか、とふと思った。邪推かもしれないけど。でも、田中純も指摘するように、トマソンに先行した今和次郎考現学の面白さとは、ひたすら執拗に都市の表層をなぞり、採集し分類しつつも、それを解釈しない、すなわちそこからなんの意味も汲み取ろうとはしない点にあった訳だし(『都市表象分析I (10+1 series)』)、トマソンもまた、その身振りを受け継いだものであった筈だ。
実際、「見立て」ということが言われ出すことによって、茶の湯(に代表される「日本文化」)トマソンの類似性が囁かれるようになって、利休とダダの共通点みたいな言説にずれ込んでいってしまったんではないかな、となんとなく思った(実際にその辺りの言説を確認していないので、確証はない。赤瀬川自身が言っているとは限らないし。そのうち、アトは取ります)。何回も書いているように、赤瀬川原平のものの考え方には、非常に興味を持っている僕だが、映画『利休 [VHS]』の脚本→『日本美術応援団 (ちくま文庫)』という流れには、少し「アレ?」と思って引いてしまったので、そういう邪推もしたくなる。この辺りのことは、またいずれ調べてから。