顔出しパネル

morohiro_s2006-04-19

普段はすっかり忘れそうになることが、自分がベタベタの観光地に住んでいるということ。シンゼングミとマイコちゃんって、流石ベタの天国、新京極である。でもこの顔出しパネルは、以前にはなかったような気がするが。
しかし顔出しパネルってのは、顔が出ていても間抜けだけど、顔がなくてもそれはそれで間抜けなもんである。無気味さもあるか。


これは新京極の誓願寺の前。「新京極の誓願寺」と書いたけど、歴史を振り返ると、もともと新京極とは、明治初年に誓願寺の境内を切り開いて出来た道だから、本末転倒というか、「庇を貸して母屋を取られる」というか……。ちなみに新京極のことは、以前『diatxt. (11)』で、「ピクチャリング・キョウト」という連載をやっていた時に、「新京極の夜」と題して書いたことがある。その時の原稿から、新京極開道の経緯を掻い摘んだくだりを抜粋する。

 新京極は、一八七二年に当時の京都府知事、槙村正直(一八三四〜九六年)の命によって切り開かれた新道であった。もともとその地は、豊臣秀吉によって集められた誓願寺や金蓮寺などの寺が集るところであった。新京極のにぎやかな町並みを歩いているとついつい見落としがちだが、地図を見てみると今でも驚くほど寺が多くある。それらの境内では、さまざまな興行や見世物などが繰り広げられていたという。
 京都市街のほとんどを焼いた蛤御門の変後の大火――いわゆる「どんどん焼け」、それに続く遷都によって、京都は落ち込んでいた。それに活気を取り戻すため、槙村は寺地の一部を接收して、三条通四条通をつなぐ南北五〇〇メートルほどの通りを切り開いたのであった。となりの寺町筋が、かつての平安京の東の京極大路に当ることから、この道は「新京極」という名前を与えられた。そして間もなくこの通りは、東京の浅草、大阪の千日前と並ぶ「日本三大盛り場」に数えられるようになる。
〔中略〕
田中弁之助『京極沿革史』(京報社、一九三二年刊、新撰京都叢書刊行会編『新撰京都叢書』第一巻、臨川書店、一九八八年)によれば、新京極開通の頃には、芝居小屋が五座あった(図一)。さらに小屋掛けの見世物としては、俄、落語、講談、浪花節、ヘラヘラ踊、曲芸、猿芝居、江州音頭、海女水中芸、犬芝居、新内が軒を連ねていたという。まさにパフォーミング・アーツの一大集積所であったわけである。


開道当時の新京極の賑わいを活写するテクストもついでに引いておく。

遊人雑〓織る如く、路を求る所なし。殊に劇場上の額、看客争ひ山をなし、肩と肩を摩り、瘤と瘤を撲つ。親ハ子を呼ひ、子は親を尋て叫ぶ。混雑の中を無慚や、ハイゴメンヤス/\と轟々然と無理無体、押分け来る人力車、何の遠慮も荒くれ男、左右へ開く人込ハ殺風景に似たれ共、是も繁昌中の一、人並みの打つ如くなり(増山守正『明治新撰西京繁昌記』、一八七七年、新撰京都叢書刊行会編『新撰京都叢書』第一〇巻、臨川書店、一九八八年)。