地蔵の流通

morohiro_s2006-05-03

この間の建築史学会シンポジウムメタ東京観光 - 蒼猴軒日録で、パネリストのどなたかが、「京都は町のあちこちに地蔵がありますよね」というような発言をしていて、ああ、そうか地蔵があちこちに存在するのは、普遍的なことではないんだと改めて認識した。そうか江戸に多いものは「伊勢屋、稲荷に犬の糞」だから、稲荷社であって、地蔵ではないのか。
で、京都は地蔵が多い。中心部だと、多くのブロックごとに地蔵の祠があって、老人などが通りすがりに詣っている。その光景を、「京都らしさ」として受け止めたり、その「素朴な宗教心」に感動したりする向きもいるだろうが、僕の場合はそうした意味を読み取ることもなく(むしろ読み取らないようにしている)、まあそういうものか程度の感想しか抱かない。無粋かもしれないけど。
ただ、各町ごとに地蔵が化粧させられていたり、マジックで顔が描かれていたり、あるいは対して手入れもせずに放っておかれたりと対応が異なっているのは面白い。祠自体も、木造のものがあると思えば、木造のものが保存のためにさらに屋根が被されていたり、またコンクリート造りで「卍」字がタイルで(ちょっとモダン)描かれていたり、相当なヴァリエーションがある。
普段はそれらは、祠に納められているのだが、年に一回、連れ出されるイヴェントがある。地蔵盆である。これも子どもの頃は全国的に行われているものかと思っていたが、実は京都、大阪の一部でしか行われていないものだとしった時は、少し驚いた。
とはいえ、今の町中に子どもがそうそういる訳でもなく、だいたい町内の一人か二人の子どもを多数の大人が囲んで盛り上げるという結構不思議な状況が、8月末の週末には京都のあちこちで観察される。街角のあちこちに「子供の飛び出し注意!」とか書かれているんだけど、子供達はこういう時には結構大人しくしていて、実際危ないのは、子供の世話をしているお婆ちゃんなどがゆらゆらと道を横切ることであったりする。
じゃあ、地蔵盆というのは、完全に形骸化しているかというと、別にそうではなく、どうもそれなりにいろんな機能は持っているようである。僕が住んでるあたりは、そこで生まれ育った人が多いせいか、地蔵盆自体は至極静かなものだが、地蔵盆が終わるやいなや、そこに畳が敷かれ、わらわらと人が集まってきて、足洗の大宴会となる。結構ないい歳の人々が、お互いを「ちゃん」付けで呼び合うというなかなか濃密なものである。僕などは、比較的最近このあたりに住みだした--とはいっても10年になるけど、そんなのこの辺では昨日みたいなもん--ので、まあ「すごいな〜」と見てる(何回かは参加して、酔わされたけど)だけだが。
まあ、話を戻すと、全ての町内に祠が残っているわけではなく、改築や住民の移動やさまざまな理由から、地蔵の行く場所がなくなる場合が往々にしてある。そんな時、地蔵はどうなるかといえば、地蔵の集会所みたいなもんに預けられる。有名なのは壬生寺だが、上の写真にある清荒神(阪急沿線のそれではなく、京都の「荒神口」というバス停の名前にもなっている方)にもあった。
そうして集められた地蔵は、普段はこういう風に参詣場所のようにしつらえられた場所に安置されているんだが、最近は上記のように地蔵のない町内や、あるいはマンションなどに、地蔵盆の際に貸し出されるシステムが出来上がっているらしい。僕の住んでいる町内も地蔵はなく、どこかから借りてきているらしい。ちゃんと地蔵の流通システムが出来上がっている。
こうした流通システムが出来たのが、いつ頃のことかは分からないが、なかなか面白いシステムだなと思う。地蔵盆の度に、営業に出る地蔵たち。「今年は○○町でのお座敷やぁ」とか言いながら。
もちろん、年一回の営業以外にもちゃんと働いている。清荒神の場合にも境内の隅に地蔵コーナーがあり、それなりに賽銭も集まっているだろうし、またミニ地蔵を納めるというシステムもあるみたい。



圧巻だったのは、壁面に納められたミニ地蔵たち。ずらっと並んで、少し怖い。ちょっと「キャラ」っぽいし:なんとなく、思いついんだけど、日本の仏教のなかでも、地蔵って「かわいさ」を売り物にする唯一の仏かもしれない。そして同時に少し不気味だし。

追記

photographology氏がスワロと地蔵にコアラ課長 - はてなStereo Diaryでアップしてくれた地蔵になったキティ。より正確には、「ハローキティ愛地蔵」と呼ぶらしい→livedoor。ただ、ゴルゴンとかに見つめられて石化してしまったようにも見える。
地蔵って、「キャラ」化の歴史が長いからだろうか、いろんなヴァージョンがあって、実は「ゆるキャラ」にはなりにくいものなのかもしれない。地蔵、観音、不動明王が、日本の民間信仰の三大スターだ、と書いてあった本があったけど、観音、あるいは不動がキャラ化した方が、「ゆるさ」は醸し出されるのかな、と思ったりもした。