視聴覚文化研究会

昨日は、残念ながら所用のため秋吉君の発表を聞き終わったところで抜けなければいけなくって、結局帰っていけませんでした。申し訳ない。で、ここでコメントなど。

  • 景山聡之(神戸大学大学院)「映画の音・言葉・音楽―ヒッチコック『知りすぎていた男』の音声分析」
    • 映画(物語)内で上演される曲が、映画自身のナラティヴとどのように関わっているのかを、詳細なショット分析とともに行った発表。非常に手堅い感じはしたが、もう一つ飛び越えたところが欲しかったというのが、正直な感想です。
    • 「はじめに」で行った「音とイメージの並行性」の問題は、シークエンスを見せてから、その説明として話した方がいいのではないかと。これは、構成上のテクニカルな問題。
    • アドルノ、クラカウアーが引用されていたが、それらの論が発表のなかでどのような位置を占めているか(それらを批判するのか、あるいはそれらの論に乗っかっていくのか)が、明確にされていなかったので、何のために紹介したのかがはっきり伝わってきませんでした。別に紹介しなくてもいいのではないかな?
    • 質疑応答で指摘した物語内における「曲」の問題。これは実際の「音」研究というよりは、音楽に関する言説研究、あるいは映画におけるナラティヴの研究になってしまうかもしれませんが、結構面白いのではないか。つまり、普通の映画音楽は、物語世界外で流れるものであるのに対して、これは物語世界内に存在するもの。しかも、オリジナル曲であるのに、出版されたスコア、オーケストラ用のパート譜、レコードという音記録メディアにそれぞれ複製されたかたちで、モノとして物語世界内に存在し、視覚的に示される(視覚文化としての音)ということ。これはもう少し考えたら面白いことが出てくるかもしれません(ところで、物語内における「ストーム・クラウズ」の作曲者と、実際の作曲者は一致しているの? 古い曲として設定されているのか、新曲として設定されているのか)。これを切り口に、一種のナラティヴ論として考えてもいいかなと思いました。
    • さらに「ストーム・クラウズ」が物語世界外に出た時、どうなるか。サウンドトラック盤(当時もうあったとして)それがヒットするとか、コンサートが開かれるとか(確か劇内で歌われたドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」がヒットしたと聞きました)。そうした場合、それはどのような聴かれ方をしたんだろうか。他のもの(たとえば僕が思いつくのは、『ラトルズ4人もアイドル! [DVD]』とかのバンドものコメディですが)との比較検討をふまえたら、この辺りも面白そうだなと妄想が広がります。
  • 秋吉康晴(神戸大学大学院)「民謡の場所とは何処か−正調安来節保存会に関する考察」
    • 安来節という「民謡」が、近代において、どのように構築されたのかを追いかけた発表。民俗学からは、真正ならざるものとされながら、家元制度を利用して、さらに観光と結びつきながら、現在まで続いてきている様子を描写したもので、論の組み立てはよかったと思います。
    • さまざまな近代文化論、国民国家論における「伝統の創出」論とは一線を画したいというようなことが述べられていましたが、じゃあそのようにそれをなすのかがはっきりとは伝わってきませんでした。それなら、これは「伝統の創出」論ですと、ホブズホウムあたりを引きながら、開き直って言っちゃってもいいのじゃないかとも思います。
    • 回してくれた本(松川二郎『趣味の旅:民謡をたづねて』だったかな)の冒頭に、「民謡とは、作られるものではなく、生まれてくるもの」という、非常に面白い言説がありました。このあたり、民俗学からは真正なものと認められないにせよ、それでも「真正性」を謳っているのではないか。じゃあ、民俗学における「真正性」とポピュラーな民謡言説における「真正性」はどう違うのか、「自然に生まれるものとしての民謡」(民芸における「無作為」の問題と重なるかな)。「書かれたもの」ではなく、「話されたもの」としての民謡。そうした発話レヴェルがどのようにナショナルなレヴェルに結びついていくのか。その辺りを突き詰めていくのも手かなと。
    • 家元制度について。これはどの辺りで行われていたのでしょうか。安来周辺だけ? それとも大阪辺りの都市部でも? 近代における家元制度については、西山松之助の「家元の研究」(古典中の古典だと思います)などを参照してみてください。
    • 観光と絡む以上、一種の都市カルチャーとして民謡を語るという点はスリリングでした(上の質問はそれとも絡みますが)。都市で複製物(楽譜、レコード)として流通するからこそ、「観光」と結びつくと思うので。じゃあ、都市部における安来節の受容については、もう少し調べられないか? 公演とかが行われたとか。
    • ただ、以上のようなことは、社会学民俗学歴史学でも行うことです(おそらくもっと精緻に)。じゃあ「芸術学」としてどのような取組が出来るのかは考えておいて欲しいところです。別にディシプリンにとらわれる必要はないけど、「売り」としてね。たとえばレコードによる楽曲分析だとか。あるいは少しやっていた字数形式の分析をもっと突き詰めるとか。
    • 世界の「フォーク」音楽が、どのように記録され、言説化され、構築されたかと言う問題も押さえておいて欲しいところです。バルトークによる民族音楽採集の問題とか、ブルーズの問題だとかを比較対象として取り上げることも可能かと(最近では、ブルーズとは、都市文化において楽譜、録音メディアにおいて構築されたものであるという論が多く見られます)。

なんか巧くまとまっていないけど、とりあえずの感想です。