今和次郎と丹下健三

6/22日に大学で行ったミニ・シンポジウム(「風景のツクリカタ」展と講演会 - 蒼猴軒日録)の報告です。すっかりアップするのが遅れてしまったけど。
当日は、主催者の学生からの「近代以降の日本人作家を紹介して、各作家の日本という場所との関わりとその制作行為との関係を話し、場所と制作行為との切り離せない関係、場所がその作家をどのように拘束したのか、あるいは作家がどのようにその場所から抜け出ようとしたのかを明らかにした後、最終的には場所と制作に関する現代の問題を話して」欲しいとのお題に応え、まず僕が今和次郎考現学について、鈴木隆之さんが丹下健三と日本のモダニズムについて話した後、島本浣さんをディスカッサントとして、話し合うという展開になった。
当日話した内容は以下の通り。

まず戦前に主に活躍した建築史家、今和次郎の民家採集から考現学の創案に至る活動を紹介して、今の考え方のなかに、建築を静態的/視覚的に捉えるのではなく、その使われ方に注目して動態的/触覚的に建築を捉えるという方向性があったことを示唆した(この時には言わなかったが、今は、意味論的に建築を捉えるのではなく、語用論的に建築を捉えていたのだと思う)上で、今の考え方のなかに、M・ド・セルトーの言う「実践された場所としての空間」という考え方と共通するものがあることを指摘した。さらに、民家採集〜考現学とは、いわば建築/都市の表面に遺された痕跡をひたすら蒐集するという痕跡の学としての考古学にも似た想像力に立脚した実践であったことをふまえて、これがシュルレアリスムにおけるディペイズマンとも共通する「転地」――モノの痕跡をコンテクストから引きはがし、移動せしめる実践――であるとした。そしてそれが、メトニミー/インデックス/触覚的な人間と環境の関わり方であるとして、メタファー/アイコン/視覚的な「風景」という環境との関わり方のオルタナティヴとして考えられることを指摘した。

奇しくも、近代日本建築において、いわば両極端とも云える今と丹下(民と官、理論と実践、東美校/早稲田と東大工学部など、さまざまに対照的)が揃うことで、幅広いパースペクティヴが得られたのではないかなと思う。じゃあ、丹下と今が、いわば座標軸の両端に位置することを確認した上で、そこから何が汲み取れるかというところまでは話が進まなかったのは残念だったけど。
でも、聞いてくれていた知人のアーティストや学生の幾人かの制作活動と共通するものがあったようで、刺激になったといってくれた。もちろん、今の活動を無批判に、「ポストモダンを先取りしている」と称揚するのは、危険だと思うし、彼の活動は、あくまでもその時代・環境のコンテクストのなかで考察すべきだと肝に銘じてはいるが、やはり彼のしたことは、まだまだアクチュアルな側面があると思う。