奈良と京都

昨日のid:Arata君へのコメントに感謝、&少し補足。


僕が「京都写真」「奈良写真」と言っているジャンルは、それぞれ「奈良性」、「京都性」を表象する=意味を構築する写真のこと。だから「京都観光写真」「奈良観光写真」と言ってしまった方がいいのかもしれない。すなわち「奈良らしさ」「京都らしさ」という言説の中で撮られ、それらの言説を強固なものとして作り上げていく写真を「奈良写真」「京都写真」と呼びたいと思う(このこと最初に言っておかなければいけなかった。反省)。で、そこで「入江=奈良」という等式は成立するんだけど、「東松=京都」はまあ成立しないんじゃないか。東松の「京都曼荼羅」を見て、京都観光をする人は、まあいないんじゃないかと思って、「あれは「京都写真」とは言えない」と書いたのです。
ということは、京都写真のみならず、奈良写真もすべからく「ベタ」であると言ってしまえばいいのだけれど、そこで「入江泰吉」という固有名が問題になってくる訳。もちろん、飯沢耕太郎さんが、「偉大なる凡庸」と評するように、入江はベタ中のベタなんだけど、問題は、京都写真の場合は明かでなかった表象行為の主体が、奈良の場合は「入江」という固有名をもって明示されると言うところが面白いなと思ったのである。


ここに奈良と京都(実際の場所ではなく、語られた「奈良」と「京都」)の差異があるんではないかと。そしてそれを作り出すのは、それぞれの言説の構造が違うからではないかとの仮説のもとに、「ベタな京都」と「知的な奈良」という二項対立を組んでみた訳である。
京都も奈良も「過去」に定位された都市であることには変わりがない。そしてその向こうには「現在」に定位された都市、すなわち東京がある。このような場所の語りを、T・フジタニは「近代日本の儀礼的トポグラフィ」と呼んでいる(『天皇のページェント 近代日本の歴史民族誌から (NHKブックス)』)。ところが、京都の場合、こうしたトポグラフィは、大量のアノニマスな言説の上に成り立っているように見えるのに対し、奈良の場合は、多くの場合、固有名――和辻、會津、そして入江――と結びつくというのが違うのではないかと思う。
大雑把に言うと、京都にかんする言説において、京都が定位される「過去」は、藤原時代、すなわち「国風文化」の時代である(こう言い切るのはなかなか危険もある。なぜなら、それへのオルタナティヴとして「町衆」言説があるから。それでもやっぱり代表は「国風文化」言説であるといえる)。そしてそれは、明治初年、遷都とともにに形成されはじめ、世紀転換期に最初のピークを迎えるものであるというのは、以前の拙論でも書いたこと(「伝統の地政学――世紀転換期における京都性の構築」『美術京都』35号、2004年)
それに対して、「奈良」の場合、結びつけられる「過去」は、神武から天平に至るものである(神話からはじまった異常に長い「過去」がごっちゃまぜにされていることにも注意)。そしてその言説は、1910年代から30年代に掛けて形成される。
さらに言えば、ジェンダーの問題も絡んできそうな気がする。すなわち京都が、「女性的」(「中国文化」そして「現在の東京」という二重の「男性」に対するもの)なものとして語られるのに対し、奈良は、「神武」にせよ、飛鳥〜天平の国際文化ギリシアと日本の共通性などの言説。井上章一法隆寺への精神史』を参照)にせよ、今度は奈良に「男性性」が付与されるという入れ子状態になっていたんではないか。奈良の表象が、固有名を持った人々=男性によってなされてきたこととも関わるような気がする(和辻とか、亀井とかってマッチョでしょ。さらに「男性的な文章」と評される白州正子だし)。70年代における「アンノン族」の問題も、ジェンダーとかかわってきそう。こういう感じかな。

  • 東京=近代=普遍性=男性性←→{京都=古典古代=固有性=女性性←→奈良=古層=普遍性=男性性}

この辺りのこと、付け焼き刃なんで、さらなる検証が必要だけど、仮説として聞いて頂ければありがたい(今、思いついたことだけど、「古層」としての奈良っていう言説と「民俗」の発見が同時代的であることも興味深い)


入江泰吉の問題については、また書きます。「入江様式」のアマチュア写真界への影響とか、「そうだ、京都行こう」の写真が、明らかに入江様式のものが多いこととか。

小説『奈良飛鳥園』

以下の本も読んだ。

随分、前に古書店で見付けた本。研究書かと思って手に取ったら小説で、どうしようかなとその時は買わなかったのだが、後に「まあ、読むこともあるかな」と入手したもの。そのまま、書棚に放り込んであったのを、今回はじめて読む。
著者は、芥川賞候補にもなったことがある作家らしい。何でこんな本を書いたかといえば、幼少の頃、小川晴暘に世話になったからだそう。
正直なところ、写真史や美術史の言説史に興味のない人にとっては、面白いものではないだろう。ただ、會津八一との出会いや、『仏教美術』発刊の辺りは興味深く読めた。
仏教美術』発刊に絡んで、美術史家の源豊宗氏の話が出てきて、存命のみぎり、学会で遠くから実際にお見かけしたことがある人物が、小説の重要登場人物として出てくるのは、なんか不思議な感じがした。まあ、氏は享年105歳(〜2001年)の長寿だったわけで、19世紀生まれだし、新聞でラジオ放送(テレビではないっすよ)が始まった頃のことを回想されていたような人だから、当たり前かもしれないが。