「session 1」展


最終日に駆け込みで、精華の院生・修了生の展覧会を見に行く。三条御幸町の1928ビル(旧毎日新聞ビル、武田吾一設計)の同時代ギャラリーに併設されたコラージュという小ギャラリーにて。とにかく場所がよく、人が多く入っていて、活況を呈していた。観光客などもぶらっと入ってきたという。静かなギャラリーもいいけれど、このように人の交通があるというのは、相当なメリットだと思う。
メディアは陶。走泥社以降の伝統か、精華の陶芸分野の学生は、あまり器を作らず、どちらかというとコンセプチュアルなものを目指す傾向が多い(関西全体の傾向としてそうらしい)。彼女たちも、「うつわ」ではなく、立体造形に近いような制作活動をしてきた。
今回は、ハコの小ささにあわせて、小さな作品をずらっと並べるインスタレーションの仕方だった。上野さんは動物、岡村さんは人間と具象系。大きさとか、インパクトで勝負するんではなくて、ふと気付いたらそこに作品があるという佇まいが面白い(いつもは二人とももっと大きな作品を作っているんだけど)。そして、それぞれが「上野の作品」「岡村の作品」といった風に、作者という創造の主体を強調するのではなく、同系色でまとめ上げられているせいもあるだろうが、まるで個展のように溶け合っていた。「共同」(「協働」とはちょっと違うんだろう)というものの面白さ。でも、もちろん陶芸――とくにてびねりという技法――は、まさに手の痕跡がありありと表面に遺されているものなわけで、作者の主体が消え失せることはない。制作者が全能の管理者として堂々と登場するのではなく、といってまったくその存在が消されているわけでもない。そのあたりが興味深かった。
今日から行われる別の院生・修了生による展覧会児玉真人、中塚智、呉鴻「消失する交点」も、「共同」がどうも重要な要素となっているみたいで、その辺り見比べてみたい。