坂本龍一とレゲエ

こないだのコメント欄蒼猴軒日録で書いていたこと。
ほぼ日刊イトイ新聞に、糸井x坂本on矢野顕子という対談が載っていて、離婚云々の芸能ネタとはなんの関係もなく、淡々と矢野顕子について語っていてそれはそれで面白いのだけど、そのなかで、坂本がレゲエについて触れている回があって、これが滅法面白い2006-12-05 - pêle-mêle経由)

坂本は、レゲエをはじめて聴いた時、嫌いでしょうがなかったという。でも、なんとか好きになろうと2年間ほど聴きまくった結果、「表面的にはさ、ドミソとレファラしか使ってない音楽」の、「その奥にちょっと立体的なね、幾何学的なおもしろい世界」を見出したという。
好きになるのに2年間かかったというのも凄い話しだけど、その結論が言い得て妙である。
多くの場合、音楽って、時間と、メロディ/ハーモニー/リズムっていう上下のメタファーで語られる場合が多いと思うんだけど、レゲエも、JBのファンクとおなじようにメロディ/ハーモニー/リズムという区分の感覚は希薄だし、さらに展開もない(ほとんどが2〜3コードの繰り返しで、「展開」はしない)から、「時間」の軸の意識も希薄といえるだろう。じゃあ、どういう感覚かっていうと、まずは音程。すっごく高いところ(頭の上の方)で鳴る高音部(ハイハット)と中音部(ギター、キーボード、声)、そして低音部(ベース・ドラムとベース)という上下のメタファーで受け取れる。このなかで耳で受容するのは、おそらく中音部だけで、強烈に増幅されたベースの音などは、まさに振動として下半身で触覚的(メタファーではなく)に感ずるものであり、高音部のハイハットの音などは、なんか頭の上の方でキチキチと、これも触覚的に感じられる。で、スネア・ドラムやリムのショットの音も触覚的に捉えられるだろう。だから、上下のメタファーがここでは、まさしく身体の上下で感知されるものになっていると言える。以上が「空間」における上下の軸。
さらに、坂本が言っている「立体的」というメタファーは、非常に興味深い。「空間的」と言い換えてもいいし、「奥行き」という概念も思い出す。


このこと(これからが本題だけど)は、また改めて。