風景と権力

Landscape and Power

Landscape and Power

いわゆるヴィジュアル・カルチャー・スタディーズとは距離を置き、独自の視覚論を展開するW・J・T・ミッチェルの編んだ論集『風景と権力』である。
相当前、http://www.think-photo.net/でこの論集を紹介し、序文の試訳をアップしたことがある。序文については、http://www.think-photo.net/review_translation/satow/landscape_power.htmlを参照。そこで書いた紹介文を採録してみたい。

本書は、『イコノロジー―イメージ・テクスト・イデオロギー』『ピクチャー・セオリー(Picture Theory: Essays on Verbal and Visual Representation)』の著者として知られるW・J・T・ミッチェルが編集した風景論集であり、ポストモダン以降の風景論としては、サイモン・シャーマによる『風景と記憶』などと並んで、最も重要なものの一つである。議論の俎上に上るのは、17世紀オランダ風景画から、イギリスにおけるピクチャレスク、その植民地への移植、そしてアメリカ西部フロンティアの風景写真と、非常に幅広い。タイトル『風景と権力』が示すとおり、風景を文化の政治学――国家形成とナショナリズムの問題、あるいは帝国主義コロニアリズムの問題――として読み解いていくポスト・マルクス主義的批評がほとんどを占める――ミッチェル自身だけは、それらから一歩身を離しているようにも思えるが・・・(ちなみに第一章のみは既に日本語訳(篠儀直子訳『http://tenplusone.inax.co.jp/backnumber/no09.html』)がある)。おそらくキーワードの一つであろうと思われる言葉は、風景の「自然化作用[naturalization]」であろう。ミッチェルは、マルクスの価値形態論やフェティッシュ論を借用して、風景が社会的諸関係を隠蔽するヒエログリフであるという。その隠蔽、または「自然−化」――自然風景と引っかけているのだろう――を暴いていくのがこの論集に収められた諸論文である。

今僕が、トポグラフィ〔場所の表象〕を考える上で、ベースとなっているのが、ミッチェルによる序文および第一章である訳だ。で、ここでミッチェルが主張するのは、風景を「文化的実践」と考えることである。つまり、僕の理解によると、ミッチェルが批判するのは、場所そのものに意味が内在していて、風景はそれを透明な媒体として反映したものという考え方なのである。むしろ、風景を見ること、描くことこそが場所に意味を付与すると言うのである。さらにその意味は、描かれた途端に、あくまでも場所の属性として先験的に、「自然に」存在したように、自らを偽装する。これがミッチェルの言う自然化作用なのである。
ただしミッチェルは、トポグラフィという言葉ではなく、あくまでも「風景」という言葉を使っている。「風景」あるいは「景観」という言葉ではなくて、「トポグラフィ」という言葉を、僕が(あくまでも暫定的に)使っている理由は、また回を改めて。
で、このとき紹介したのは、この本の第一版(1994年)だった。で、気が付いたら2002年に大幅に改訂された第二版が出ていた訳だ。目次は以下の通りで、下線を附した論文が、第二版で増えた部分。

W・J・T・ミッチェル『風景と権力』第二版

  • W・J・T・ミッチェル「第二版への序--空間、場所、風景」
  • W・J・T・ミッチェル「序」
  • W・J・T・ミッチェル「帝国の風景」
  • アン・ジェンセン・アダムズ「〈ヨーロッパの大いなる沼地〉における闘争するコミュニティ──アイデンティティと17世紀オランダ風景画」
  • アン・バーミンガム「システム・秩序・抽象──1795年前後におけるイギリス風景画の政治学
  • エリザベス・ヘルジンガー「ターナーイングランドの表象」
  • デイヴィッド・バン「〈我等の茅屋〉──トーマス・プリングルによるアフリカの風景画にみられる重商主義的かつ内国的空間」
  • ジョエル・スナイダー「国土の写真」
  • チャールズ・ハリソン「風景の効果」
  • エドワード・W・サイード「創造、記憶、場所」
  • W・J・T・ミッチェル「聖地の風景--イスラエルパレスティナアメリカの荒野」
  • ジョナサン・ボルド「ザ・ウィルダーネス〔南北戦争の史跡〕における絵画と目撃者」
  • マイケル・トーシグ「浜辺(ファンタジー)」
  • ポーグ・ハリソン「此処に眠れる」

今回の改訂は、序文で分かるとおり、「ポストモダン地理学」「マルクス主義地理学」あるいは「新しい地理学」と言われている領域で問題となっている空間論的転回=場所/空間論をベースに、それに第三項として「風景」を考えるという視点を導入したところにある。序文の目指すところは、ミシェル・ド・セルトーによる場所/空間の二項対立(『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』)を踏まえた上で、アンリ・ルフェーヴルの言う空間的実践/空間の表象/表象の空間の三項(『空間の生産 (社会学の思想)』)を、それぞれ空間/場所/風景と読みかえることである(ここがややこしい。まだ消化中)。
ミッチェルがこのような改訂を行おうとした過程は、第一版と第二版の間の2000年にシカゴ大学で開講された「風景セミナー」で跡づけることが出来る。シラバスが、pdfで挙がっている=Landscape Seminer。ざっと訳すと以下の通り。

  1. 論題:空間、場所、風景
  2. 空間の理論(1)=フーコー、ド・セルトー、デイヴィッド・ハーヴェイなど
  3. 空間の理論(2)=ルフェーヴル、バシュラールなど
  4. 場所の霊〔ゲニウス・ロキ〕:楽園からピクチャレスクへ=古典的風景画論
  5. 風景と権力=本書第一版
  6. 風景と転位=シャーマ、サイードなど
  7. アース・アート=ゲストを呼んで
  8. , 8, 9=学生による討論

ああ、受けてみたかったというようなセミナーである。
とにかく本書は、言語論的転回のあとの風景論を考える上で、非常に重要な文献である。そうした現代における風景論を考える上で参考になるサイトを次に挙げる。地味ながら、動き始めている模様。

Inventing Places: Studies in Cultural Geographyという本を手に入れたいのだが、絶版らしい。古本を探すしかないか。あるいは京大にあるみたいだからコピーしにいくか。

美学美術史だけではなく、建築学、地理学、社会学歴史学、人類学、民俗学などの諸領域に属している研究者たちを集めて、お互いの蓄積を持ち寄れる風景スタディーズのような場があればいいな、と夢想している。そこまではいかないが、カトリーヌ・グルーさんが、来年そのようなシンポジウムを企画していると聞いた。未確定だが、参加させてもらえそうなので楽しみ。