文化の荷解き

ルース・B・フィリップス、クリストファー・B・スタイナー『文化の荷解き--植民地世界、ポスト植民地世界における芸術と商品』
目次

    1. ルース・B・フィリップス、クリストファー・B・スタイナー「美術、真正性、文化的遭遇の手荷物」
    2. フランク・エタワジェシック「我が父の仕事」
  • 1,他者を構築すること--交渉としての生産
    1. ルース・B・フィリップス「尼、淑女、〈ヒューロン族の女王〉--19世紀のヒューロン族観光芸術における野性的なものの流用」
    2. エリック・クライン・シルヴァーマン「セピック川(パプア・ニュー・ギニア)におけるアイデンティティの工作としての観光芸術」
    3. シドニー・リトルフィールド・キャスファー「サンブールの土産物--琥珀の国の表象」
  • 2,真正性--複製技術の問題
    1. クリストファー・B・スタイナー「真正性、反復、連続の美学--複製技術時代における観光芸術作品」
    2. アルドナ・ジョナイティス「北西海岸のトーテム・ポール」
    3. ティーヴン・R・イングリス「所有主、機会、意味〔Master, Machine, and Meaning〕--20世紀インドにおける印刷イメージ」
  • 3,芸術的な革新とアイデンティティの言説
    1. マーヴィン・コホーダス「エリザベス・ヒコックとカール・バスケットリー--革新と真正性のパラダイムについての論争の事例」
    2. サンドラ・ニーセン「伝統の連鎖〔Thread〕、発明の連鎖--トーバ・バタック族の女性の社会変化に関する表現を解きほぐす」
    3. ジャネット・キャサリン・バーロ「過去を(について)素描する--イヌイットのグラフィック・アートにおける交渉的なアイデンティティ
  • 4,観光芸術におけるジェンダーの(再)形成とステレオタイプ
    1. エニッド・シルトクラウト「マンベツ芸術におけるジェンダーセクシュアリティ
    2. マーシャ・C・ボル「ラコタの観光芸術を定義する:1880〜1915年」
    3. ヴェリティ・ウィルソン「工房と夜会--欧米における中国の染織:1850年から現在まで」
    4. ナンシー・J・ペレゾ「インディアン・ファッション・ショー」
  • 5,文化の蒐集と蒐集の文化
    1. モリー・リー「観光と趣味の文化--20世紀の世紀転換期におけるアラスカの先住民芸術の蒐集」
    2. ジョナサン・バトキン「観光は過大評価されている--プエブロ族の陶芸と初期骨董貿易:1880〜1910年」
  • 6,観光芸術を舞台設定〔staging〕する--文化保存のコンテクスト
    1. トゥルーディー・ニックス「インディアン村とエンタテイメント--観光土産販売の舞台を作る」
    2. キャロル・S・アイヴォリー「マルケサス諸島における芸術、観光、文化復興」
  • エピローグ:ネルソン・H・H・グラバーン「民俗芸術と観光芸術を再訪する」

Unpacking Culture

Unpacking Culture

id:monodoi:20051107#p4経由で、嵯峨芸大の博物館で「観光と芸術展--観光が育てた芸術作品」という展覧会が行われていることを知った(http://www.kyoto-saga.ac.jp/art_institution/museum/schedule/index.php、12月22日まで)。これは行っておきたい。嵯峨は遠いし、秋のシーズンで混んでそうだけど・・・。
さて、昨今の欧米では、観光芸術(Tourist Art)の研究が進んでいるようである。これにはさまざまな要因があるだろう。まずは人類学、社会学、地理学を中心とした観光研究の進展が挙げられる(J・アーリ『観光のまなざし―現代社会におけるレジャーと旅行 (りぶらりあ選書)』など)。もちろん、サイード以降のポスト植民地批評も影響は大きい。さらに美術史から出てきたヴィジュアル・カルチャー研究、人類学、考古学から出てきたマテリアル・カルチャー研究というかたちで、脱領域的研究の場が成立しているというのも大きいだろう。この『文化の荷解き』という論集も、そうした状況下で編集されたものであると思う。寄稿者は、人類学者、民族学博物館のキュレーター、さらにはアフリカ、オセアニアアメリカなどを対象とする美術史研究者である。序を寄せているエタワジェシックという人は、ネイティヴ・アメリカンの陶芸家らしい。
以下の論題を見ているだけでも分かるのが、ジェームズ・クリフォード(『文化の窮状―二十世紀の民族誌、文学、芸術 (叢書・文化研究)』)らによって提示されたポスト植民地状況における「文化と真正性(authenticity)」の問題がクロース・アップされていることである。文化と真正性の問題とは、大雑把に言うと、従来の人類学や美術史が、部族文化・部族芸術を研究する時に、西洋的・近代的文化に「汚染」される以前の「真正な」文化のみを研究対象とし、近代における異種混淆的な文化を真正ならざるものとして無視してきたことに対する批判である。「観光芸術」を扱うこととは、まさにそうした「真正性」の問題や「異種混淆性」の問題を扱うことであるのだ。
これは、「日本美術史」の問題と関わってくる。以前、アメリカで日本美術史の通史を受講したときに、北斎、広重で「日本美術史」が終わったことに、少なからぬ衝撃を受けた。おそらくその教授の考えでは、真正な日本美術というのは、幕末で終わるものなのだろう。そして、本人が意識しているかどうかはわからないが、近代の日本美術とは、いわば西洋に、近代に「汚染」された不純なものと見なされているのではないだろうか。顧みて日本における「日本美術史」というディシプリンについて考えても同じようなことが云えるだろう。実際、結構最近まで、日本の近代美術史の研究者の多くは、西洋美術史出身であるという状況は確かにあった。「余技」といったら言い過ぎだろうけど。
昨今は、日本の近代美術史をはじめから研究する学生も増えてきた。しかし、上記のような問題がどれほど彼/彼女たちに意識されているだろうか。僕などは、1990年前後における日本美術史における、いわば「制度論的転回」--北澤憲昭、佐藤道信、木下直之各氏を代表とした--に大きな影響を受けた世代だが、むしろ今の若い世代においては、日本美術史研究は再び反動化しているように思う。
もう一つ、「民芸」の問題も重要である。最近、日本民藝館が開館100年を迎えたこともあって、一種の民芸再評価の気運が高まっているようである。若い研究者などで、民芸の問題を扱う人も増えてきているようだ。また、ちょっと前から、柳宗悦に関してのこれまでとは違う角度からの研究書がいくつも出されている(ハイデガーに依って柳の思想を読み解く伊藤徹『柳宗悦 手としての人間 (平凡社選書)』、社会学的な問題設定からの竹中均『柳宗悦・民藝・社会理論』、さらには『柳宗悦と民芸運動』という論集も出た)。それぞれこれまでにはない視点から民芸運動を扱っているものの、民芸運動における「真正性」の問題や、アイヌや沖縄の染織などの問題は、もっと討議されても良いと思うし、また柳の論から言うとどう考えても「真正な民芸」とは思えない(でも柳も口をつぐんでいる)新民芸の問題、それこそ真正ならざるものとして無視されている土産物の民芸品の問題こそ、「近代」の問題として考えていくべきなのではないかと考えている。柳によって民画の代表例とされた「江戸泥絵」を研究対象の一つとしている僕自身の問題でもあるし(ちなみに、僕自身は、江戸泥絵とは、民画とはまったくかけ離れたものであると考えている)。