建築/都市とその表象

今回の東京行きでは、リプレゼンテーション、すなわち表象=再現=代行の問題をさまざまな角度から考えさせられる展示に出会った。以下、メモのようなもの。

  1. 建築を展示すること:吉村順三建築展
  2. 建築の表象・表象の建築:杉本博司
  3. 「一覧」すること:都市の模型展
  4. 二つのまなざし:『東京スキャナー』と『東京静脈
  5. インダストリアル・ランドスケープ:ドイツ写真の現在展

とりあえず、一つ目だけ以下に書く。あとはおいおい書くつもり。

建築を展示すること:吉村順三建築展

吉村順三建築展
建築展というものを何回か見たことはあるが、いつも何となく消化不良というか、いまいち満足しきらずに帰ったものだ。
美術館において、建築展というのものが開かれるようになったのが、何時頃からなのか分からないが、最近ではそんなに珍しいことではなくなっている。ただし、美術館という空間は、基本的には絵画と彫刻のために作られたものであって、そういったものを展示するのは、まあ難しいことではないのだろうが、建築はそういう訳にはいかない。展示会場に入りきらないから。
したがって、建築を展示するためには、さまざまな手段を使うこととなる。スケッチ、設計図、模型、写真、映像など。今回もそうだったが、建築家の言葉などのテクストが壁などに書かれていることもある。それら全ては、すなわち建築の表象である。建築の展覧会とは、つまり建築の表象の展覧会であるのだ。全ての建築展は、複製物で埋め尽くされた「空想の美術館」(マルロー)のようなものといってもいいのではないか(これは、過去のパフォーマンスやランド・アートなどの展覧会の場合も一緒である)。
建築の展覧会では、観客たちは、さまざまな建築の表象に取り囲まれながら、その展覧会場から遠く離れた場所に建っている建築作品に思いを馳せる。見ている観客たち、それぞれの頭の中に、それぞれのレヴェルに応じて、さまざまな建築の表象が存在していると思うと何となく面白い。
レヴェルというのは、建築のリテラシーの程度の問題である。僕など、建築に興味はあるが、建築教育を受けた訳ではない人間にとっては、実際の建築物を再現することは、なかなか難しい。建築のリテラシーの高い人は、もちろん設計図を見るだけで、頭のなかである程度、実際の建築物を頭の中で再現できるだろう。
それでも、どうしても再現できないもの。それは、建築空間のなかでのスケール感であろう。視覚的な絵画と違って、建築空間の受容とは触覚的なものだとはよく言われるが、その触覚的な感覚こそ、再現の困難なものであるのだ。
もちろん美術館サイドもさまざまな努力をする。以前広島で見たダニエル・リベスキンドの展覧会では、1/10の模型が展示されていた。途轍もなく大きな模型である。物置小屋くらいはあった。
今回屋外に展示されていた、実寸大の設計図(id:morohiro_s:20051111)という何とも倒錯したものも、スケール感を出そうとする努力の結果であろう。また、設計図や写真は、壁に展示されているだけではなく、中央の大テーブルに置かれていたのだが、そのテーブルや天井から吊された木(何と言ったらいいのか、つまり長大な木製のものが、テーブルの上に吊されていたのだが)が、それぞれいかにも吉村様式であった。窓に嵌められた「吉村障子」と並んで、空間再現の努力のたまものだと思う。
それでも、現実の建築物に入ったときの体験は、得られない。で、観客は、なんとなく体験したような気になって帰っていくのである。僕がこれまで感じていたいまいち腑に落ちない感じというのはこれであったのだろう。
でも、今回、建築展とは建築の表象展に他ならないのだと考えたとき、はじめてすっきりとした。建築をどのように表象するのかを楽しめば、面白いのだと。まあ、ひねくれた見方だけど。
さて、そうした見方で展覧会を見て、思ったこと。展示されている模型であるが、新宮殿など以外の多くは、建築のマチエールが消えた白いものだった。白い模型というのは、ある意味で、素材感を再現することを放棄したものである。でも、そのことによって、建築の形態というものが前景化される。早い話が、写真と見比べると、模型の方がよりモダニストであったのだ。建築の会社のネオン付きのロゴも、ほとんど目立たなかったし。
このことは、新古典主義以降、彫刻を表象した版画などが、マチエールやヴォリュームを捨て去って、輪郭線だけで描いていたことや、仏像などを研究する際に、カラーではなくモノクロの写真が使われることなどを思い起こさせる。杉本の「Architecture」シリーズもこの路線で考えることが出来るかも知れない(これについては、またいずれ)。