視覚文化としての百貨店

昨日のコメント欄でfukayaさんから「百貨店」に関する指摘があったので。
百貨店とは、19世紀にできた視覚文化のさまざまな装置を統合したものとして、注目されているものである。大体、世界ではじめて「百貨店Grand Magasin」と銘打ってパリに開店したボン・マルシェ*1(1852)自体が、前年の第一回万国博覧会@ロンドンを常設にして、販売施設にするという意図のもと作られたわけである。ボン・マルシェは、ロンドン万博の展示施設クリスタル・パレスをモデルとしたクリスタル・ホールを持ち、シーズン毎のセール(これも百貨店がはじめたこと)を「エクスポジシオン(博覧会、展覧会)」と称するなど、明らかに万博を意識していた。
そのポイントは、薄利多売、現金正価、入店自由、返品可の四つ。それまでは、店に入って、こういうものが欲しいと店員に言って、それからはじめて品物が出てきて、気に入ったものを選んではじめて値段の交渉がはじまって……という風だった。それが一気に変わる。「定価」というのもこのときはじめて出来たという。もちろん、百貨店的な売り方ーー陳列販売ーー自体は、パリのさまざまなパサージュなどにあった「流行品店magasin de nouveaute」をもとにしている。田舎から出てきて、そうした百貨店で働く女性を描いた以下の本も最近翻訳された(分厚すぎて、読み切っていないけど)

で、ゾラは、百貨店を「現代商業のカテドラル」と評しているのだが、資本主義時代における百貨店の文化的意義に注目したのが、ベンヤミンである。百貨店とは、商品のスペクタクル化であり、そこにおいてモノの使用価値(すでに商品化によって影が薄くなっていたのは、マルクスの指摘するとおり)はまったく不可視になり、交換価値が完全に前面に出てくると述べた。

  • ヴァルター・ベンヤミンパサージュ論 (岩波現代文庫)』1巻より
    • 百貨店の創立とともに、歴史上はじめて消費者が自分を群衆と感じ始める(かつて彼らにそれを教えてくれたのは欠乏だけであった)。それとともに、商売のもっている妖婦めいた、人目をそばだたせる要素が途方もなく拡大する(A4,1)。
    • 百貨店の特質。客はそこで自分を群衆と感じる。彼らは陳列された商品の山と対峙する。彼らはすべての階を一目で見わたせる。彼らは定価の金額を支払い、商品の「お取り替え」ができる(A12,5)。

商品がずらっと並んで、客は、店員と話すこともなしに、ひたすら歩き回り、商品の視覚的情報とその価格--交換価値--を受容し続けるのだ。こうした視覚を、パノラマやパサージュ*2における遊歩、ウィンドウ・ショッピングとともに、「移動的視覚の出現」と呼んだのは、アン・フリードバーグ(Window Shopping)である。
ボン・マルシェや百貨店の成立状況に関しては、以下が詳しい。

ボン・マルシェのクリスタル・ホールは、ガラスと鉄骨でできた全面の天窓を持っていた(http://www.architecture.com/go/Architecture/Reference/Library_799.html)が、ガラスと鉄骨の建築は、当時の最新の技法であり、クリスタル・パレスはもちろん、パサージュ(10+1 website|テンプラスワン・ウェブサイト|Photo Archives)や駅(オルセー美術館http://www.musee-orsay.fr/ORSAY/ORSAYGB/HTML.NSF/By+Filename/mosimple+built+index?OpenDocumentをみよ)でも使われていた(19世紀のパリ建築については、ここを参照→10+1 website|テンプラスワン・ウェブサイト|Photo Archives|46 パリ、近代建築黎明期)。こうしたガラスと鉄骨の建築がもたらした知覚の変化については、またまた登場のこれ。

日本でも、遅れること半世紀、三越が「百貨店宣言」をして、20世紀初頭にはさまざまな百貨店が出来ていく。

大阪、心斎橋の百貨店を中心とした「モダン」文化に関しては、「心斎橋モダニズム」展が開催されるなど、最近盛り上がりを見せている。

*1:早稲田の大隈通り商店街に「ボン・マルシェ」という洋食屋があって、古びた、巴里の香りなど一切しないところで、「ボンマル」と呼んでいた。ピラフの上にメンチカツが乗ったという如何にも学生好みのメニューを覚えているが、今もあるんだろうか。

*2:細馬宏通id:kaerusan)さんによるパサージュについてのメモ(Rue des Passages)は面白いので是非