江戸マンガ
マンガは好きで、授業などでも素材として使ったりはしているし、一度ドイツのマンガについて短文を書いたこともあるけれど、実際に何を書くかとなるといまいち切り口が思いつかなかったりする。これまで読んだマンガ論でどんなのがあったかなと考えていて思い出したのが、四方田犬彦がマンガにおける空き地の表象について扱ったもの(いま手許にないのではっきりしないけど、『路上観察学入門』に所収されていたと思う)。あ、そーか。場所の表象を専門としているのだから、それで行けばいいのかと。マンガにおける「風景」の問題をとりあえず考えてみようか。うまいこといけば「背景論」のようなものにまでいけるかもしれないし。
で、対象として、とりあえず考えられるのが「江戸」。泥絵の研究をしていたときの蓄積はあって、またノスタルジア論に関しても基本的なところは押さえているという点がまずある。さらに、戦後における「江戸」に関する言説の整理もしてみたい(大正期における江戸評価については以前調べたことがある)。以前、紹介したキャロル・グラックさんの論文「江戸の創出」(id:morohiro_s:20051113#p3)という強力なナヴィゲーターはあるし。とにかく近代の日本における「江戸」というのは、サイードをもじっていえば、「近代人の心のもっとも奥深いところから繰り返したち現れる他者イメージ」といっていいのではないかと思っている。
じゃあ、何を対象にしよう。『浮浪雲』か(ユートピアとしての江戸)、『佐武と市捕物控』(「時代劇」というものの表象)か。『カムイ伝』(アンチ=ユートピアとしての江戸)もあるけど、都市表象ではないので却下。『キテレツ大百科』における「サムライ」表象、『忍者ハットリくん』におけるニンジャ表象なんてのまで頭を巡った。
で、まず読むだけ読見直してみようと考えついたのが、先ほど亡くなった杉浦日向子の江戸もの。ポイントとしてはいくつかあると思う。
- 市井モノである点。江戸を一種のユートピアとして捉えることの問題やノスタルジアの問題。
- 80年代の都市論ブーム、江戸=東京論ブームのなかでクロース=アップされたこと。これは、前田愛や陣内秀信などの言説を整理することにもなるか。
- 「マンガ」の外部での語られ方が顕著であるという特異さ。「都市論」として見なされたこと。「考証家」として江戸の専門家と見なされたこと(←「漫画家引退宣言」をしていたらしい)。それに対する「マンガ業界」からの反応は。マンガの「外」であることが、マンガ論としてどうなのか。マンガ「内」の時期も検証するために、初期の掲載誌であった80年代の『ガロ』や『漫画サンデー』の位置も調べる。
- 出発点にもなった四方田と同じ路上観察学会に入っていたこともあるなぁ。これからも80年代都市論批評に折り返せるかも。前田愛、杉浦日向子、路上観察学会を繋ぐ筑摩書房とか。
- 造詣が深かったと思われる浮世絵とマンガの距離。アプロプリエートされる浮世絵。
『浮浪雲』は、比較対象として持ってこれると思う。ちょっと時期は遅れるが宮部みゆきの江戸ものについて考えてみても良いかも知れない。
まぁ、これをやるかどうか分からない(いしいひさいちと下新庄の風景なんてのも面白いかも知れない)が、どっちにせよ、言説のみに引っ張られることなく、視覚的分析を忘れないようにしなければ。とりあえず杉浦に目を通しながら、前田愛『都市空間のなかの文学 (ちくま学芸文庫)』も読み直そう。