非=ブラック、あるいはフィッシュボーンの困惑

四角形からちょっと離れて。以前ちらりと書いた(id:morohiro_s:20041123#p1)ことを膨らます。

ディープなファンク、ハイ=エナジーなパンク、狂乱的なスカをそれぞれ同量組み合わせたフィッシュボーンは、ロサンゼルスを活動の起点としたバンドで、80年代後期においてもっとも優れ、折衷的なオルタナティヴ・ロック:バンドの一つであった。活動亢進的〔hyperactive〕で、意識的な多様性、いかれたユーモア感覚、社会に対する鋭い意見を具えたこのバンドは、80年代後期に相当の人気〔cult〕を集めたが、メインストリームのオーディエンスを獲得するには、遂にいたらなかった(スティーヴン・トーマス・アールワイン、Fishbone | Biography, Albums, Streaming Links | AllMusicより)。

以上は、フィッシュボーンの紹介文の冒頭である(AllMusic | Record Reviews, Streaming Songs, Genres & Bandsの記事は、詳しく、また的を得ているものが多いので、ことあるごとに調べている)。
ちなみに、フィッシュボーンのオフィシャル・サイト(fishbone.net)では、以下で言及している曲のヴィデオを全て見ることのできるので、要チェック。
で、フィッシュボーン。はじめて聞いたのは浪人か大学に入った頃(京都のレコード屋だったことは覚えている)、デビューのミニ・アルバムに入っていた"Party at Ground Zero"がレコード屋で流れていたのを聞いて、何かいろんな要素がごちゃ混ぜで、お祭りみたいな音楽だと思って即買いした。要するに2トーン・スカ、パンク、Pファンク、あとザッパも少しってレシピなんだが、その頃にはとにかく色んな要素がミックスされていることだけ感知した。明るい/暗いの差はあるが、イキ方にザ・ポップ・グループと似たものを感じた。
あと、同い年というのにも驚いた。18かいな。えらいやっちゃらやなぁと。マイク・タイソンが同い年って聞いたときと同じくらい吃驚。

Fishbone

Fishbone

続くフル・アルバム、In Your Face、さらにTruth & Soulでは、ごちゃ混ぜ振りはより洗練されたかたちで進んでいく。ヘヴィー・メタルの要素も入ってきて、リヴィング・カラーや24-7スパイズなどとともに所謂「ブラック・ロック」を牽引する存在となっていく。3rdでは、カーティス・メイフィールドの名曲、70年代のアフリカ系アメリカ人の「現実」を歌った"Freddie's Dead"を思いっきりヘヴィーにカヴァーする。まるでカーティスを「ブラック・ロック」の系譜に位置付けるかのように。
強烈だったのは、2ndから3年の時を置いて出された3rdアルバム。LP2枚組。ジャケットが格好良かった。とくにヴォーカルのアンジェロ・ムーアのキレ振り。でもペイントは施されているものの、白紐のチェリー・レッドのDrマーティン・ブーツにスキンズ魂を感じ取って嬉しかったもんだ。ちなみに、巷間伝えられるようにスキンヘッズの多くは、人種差別的で右翼なのだが、その中でも左翼的なスキンズとか、SHARP(Skin Heads Against Racial Prejudices=人種的偏見に反対するスキンヘッズ)とか、フィッシュボーンとかジ・アンタッチャブルズのようなアフリカ系アメリカ人のスキンズもいる訳で、この辺りも面白い。
話を戻して、この3rdアルバム『俺の周りの現実』は、素晴らしいアルバムで、アルバムの統一感なんてくそ食らえとばかりに、曲毎にころころ変わる「スタイル」を次々と着替えていくところに痛快さを感じた。むっちゃくちゃ太いヘヴィー・メタルの"Sunless Saturday"も素晴らしかったが、何と言っても、"Everyday Sunshine”。タイトルからして、明らかにスライ&ザ・ファミリー・ストーンの"Everyday People"のパスティーシュで、あいだにパーラメントの”Do that Stuff"を噛ませば、一つの系譜が見えてくる。終わり頃にリズムが倍転すると、パンクなゴスペルという強烈なものになる。PVでお花畑で踊り狂う連中を見たときは、少し泪が出そうになった。こんな曲を作る迄になったかと思った。今から思えば、「終わりの始まり」だったか。
The Reality of My Surroundings

The Reality of My Surroundings

(アンジェロは裏面に写っている)
でも、ここまでだった。あと二枚のアルバムが出たが、久しぶりに聞き返すと曲はさほど悪くないのに、すっかり鳴かず飛ばず。少なくともアルバムは出ていない。上記の引用でもすっかり「過去のバンド」として扱われている。サイトはあるから、活動はしてるみたい(頑張って欲しい)だけど、あまり噂は聞かなくなった。
同じコインの裏表と云おうか、ブラック・ロックの逆数であるホワイト・ファンク、レッド・ホット・チリ・ペッパーズは、いわばアメリカを代表するバンドになっていったのに。
やっぱり「ブラック・ロック」は無理だったのか。歌詞とかを読んでいると、フィッシュボーンは、同じLA出身のNWAなんかと、アフリカ系アメリカ人の若者が置かれている状況については、明らかに同じ告発の問題意識を持っているのだが、それが「ロック」であるが故に、若いアフリカ系アメリカ人のファンが付かないという悲劇。一方、メインの市場では、あくまでも「ブラック」だった(バッド・ブレインズの問題も考えておかないといけないかな)。
このことは、クリフォードの四角形(あ、結局出てきてしもた。ここからは実験)に当てはめてみれば分かりやすいだろう(この話、いまいち巧く操作出来なかった。それでも、読んでみたろうという方は次をクリック。

「芸術/文化」を「ホワイト/ブラック」という対立する意味素の体系に置き換えてみる。グレマスでいうと、体系Sは、「アメリカ音楽に関する批評における人種的な構造」、s1は、「ホワイト」、s2は「ブラック」となる(以降、対立を際だたせるため、「アフリカ系アメリカ人」ではなく「ブラック/黒人」という言葉を使う)。となると-s1に「非白人ポピュラー音楽」、-s2に「非黒人ポピュラー音楽」が出来る。「真正/非真正」の軸はそのまま。「傑作/器物」には、難しいけど「ロック/R&B」でも入れとこうか。となると、1にはアヴァンギャルド性、知的さで評価されるホワイト・ロック(なんとなくベックが思い浮かぶ)が、2には、伝統性、身体性で評価されるコンテンポラリーなR&B/ヒップ・ホップやあるいはロバート・クレイみたいなブルースが出てくる。で、4には非真正なR&B。ちょっと難しいけど、マライア・キャリーとかブリトニー・スピアーズとかかな。ポップで、R&Bの要素を「剽窃」しているといわれがちなもの。これは、批評レヴェルでは評価されないけれど、売れる。で、「ブラック・ロック」ってのは、3に当てはまる。アフリカ系アメリカ人のオーディエンスにとっては、あくまでも「非ブラック」なものとなってしまう、と言って白人ロックの歴史のなかにフィッシュボーンが記されることはあまりなさそうであるのだ(と、当てはめては見たもの、う〜ん、巧いことあてはまらん。はじめの体系を考え直さないといけないか。「ロック/R&B」の設定がまずいのか。でもここまで書いたので、せっかくだから続ける)。
さっきコインの裏表と書いたレッチリは、明らかに1の領域で評価された。キュビスムとアフリカの人形や仮面の関係のようなことは起きるのである。「ホワイト・ファンク」は「ロック」の歴史に組み込まれうるのだ。でも「ブラック・ロック」は、あくまでも「非真正」な「ロック」なのだ。これは、初期ファンカデリックも味わってきたことだろう。ファンカデリックの"Who Says a Funk Band Play Rock"(One Nation Under a Groove)という抗議やマザーズ・ファイネストの”Niggizz Can't Sang Rock & Roll”(CDなし)という皮肉を思い出す(じゃあ、ジミヘンは?ということになるけど。芸術として形態面を評価されるアフリカの仮面か)。
なんかだんだん自信がなくなってきた・・・。こういう構造主義的なものって、ぴたっと嵌ると気持ちいいけど、嵌るためには、相当に巧妙に二項対立を設定しなきゃいけないってことが分かった。あと、抽象化するものだから、ジミヘンのような例は絶対出てくる。そこを如何に巧く操作するかに掛かってくるんだな。ジミヘンの場合は、イギリスというフィルターを通ったってことを強調するとか。
まあ、いいや。論理的な操作を使う面白さと難しさを思い知った。「場所/空間」もよっぽど緻密に設定しなきゃいけないな。

  • あと、昨日書き忘れたけど、グレマスには「クライン群」に関する言及はなかった。関係ないことはないとは思うが。一応報告。