スライと内向

スライ第三弾。
制作者自身の意図はさておき、『暴動』のさまざまな側面というのが、ことごとく「内向」の表象として当時の受容者に受け取られたということは間違いないところだと思う。あのアレた写真のような全体の音の肌理。絶叫するのではなく、マイクロフォンの近くで歌っているような声。あのチャカポコいうリズム・ボックスの音。トラック・ダウンの時に対して調整してないんじゃないかと思わせるバランスの危うさ。もし同じ曲たちが、『スタンド!』の時のような抜けた音で、キラキラしたホーンを目立たせて(昨日、「トランペットがいない」と書いたがこれは間違い)録音され、発表されていたとしたなら、受容者の批評の語り口は変わっていたんじゃないかと思う。
で、問題は、なぜ、『暴動』のアレ=ブレ=ボケ(プロヴォークか!)な音が、すべて制作者のストーリーに回収されたのかという問題である。スライというのは、他の黒人ミュージシャンとは違って、ロックの「天才たち」の文脈で語られがちなわけだが、そこで見られる「美的モダン」の言説--苦悩する前衛たちid:morohiro_s:20051202#p1参照)--がまさに当てはまるのが、『暴動』の音であったわけだ。
このような音が出てきた理由っていうのは、必ずしも「内向」に由来するものでなくてもいいはずだ。多重録音する理由ってのは、いろいろある。昨日のコメントであったようにバンドのもめ事からかもしれないし、さまざまな理由が考えられる。
でも、それは全てスライの「内向」として語られてしまう。たとえばJBが、このような音を作っていたとしたらどのように評価されただろうか。果たして、「内向」として語られただろうかJBって「内面」なさそう。って言ったら怒られるか)
やっぱり音楽を巡る、さらには当時の社会・文化状況全てに亘る言説の編成に眼を向けないと、『暴動』の抱える可能性は、しぼんでしまうんじゃないかと思う。といって、『暴動』のオルタナティヴな聴き方がどんなものか、具体的には全然分からないけど。

There's a Riot Goin' On

There's a Riot Goin' On

僕がはじめて買った時のジャケットはこっちだった。ライノ盤だったかな。このあと確かエドセルからオリジナル・ジャケットが復刻されたはず。


話は変わるけど、一昨日のコメントに対する応答で、僕の聴いてきた音は「スライとスペシャルズを二つの中心とする楕円形」のなかにマップできる、てなことを書いたけど、考えたらスライとスペシャルズを足して二で割ったらフィッシュボーンやん。あ〜、やっぱりあのバンド、僕にとって相当重要だったんだな、としみじみ思う。