痕跡と考古学的構想力

東京のある美術史研究者に、「京都には、もの研っていう面白い活動をしている研究会があるけど、出てないの?」とずっと以前に言われていたhttp://www.k5.dion.ne.jp/~res/index.html。でも、なかなか研究会などに参加する機会がなかった。で、主催者の一人、佐藤啓介さんのブログ(汝の隣人のブログを愛せよ | LOVELOG)を見てたら、発表をされるというので、聞きに行ってきた。
最近、「民族誌的想像力」(クリフォード)、「地理学的想像力」(ハーヴェイ)というのもよく聞くが、これは「考古学的構想力」。なかなか魅力的なタイトルである。現代の考古学の一部では、考古学を「いにしえを考える」ことに限定せず、広くものに刻まれた痕跡--ものの来歴を示す--を研究する学として捉えていこうという動きがあるという。「痕跡の学」としての考古学。世界の全てのものは、何らかの原因によって生じたものだとするならば、あらゆるものは痕跡であると考えることも可能で、そのように考える仕方が、「考古学的構想力」だという。

  • ギンズブルグ(『神話・寓意・徴候』)によると、徴候=ちょっとした痕跡を手がかりに推論を重ねていくことは、近代的な科学的思考の基本であるが、とすれば、考古学の方法とは、まさに近代科学のエッセンスそのものなのかもしれない。

パースの記号論を援用して、痕跡=インデックス的記号を「かつてあった」「いまはもうない」という二つの時制をまたぐものと考えることによって浮かび上がってくるのは、痕跡というものの「過程の継続性」である。すなわち、痕跡というものも、それが出来上がった時点をもって凍結されるものではなく、それも「もの」である以上、経年による影響を受ける。ハンドアウトから引用すると「ものに痕跡が残されると同時に、ものは他のものに痕跡を残していく」のであるという(ここで例として挙げられるのが、ロバート・スミッソンの《スパイラル・ジェッティ》)。痕跡の二重化。
で、「痕跡における美」の問題。痕跡は、ものの永遠性、普遍性、「substanceのstability」という観念に疑問を突きつけ、見るものを不安に陥れる。また、痕跡を残したもの--かつてあって、今はもうないもの--は不在であることは、痕跡に潜む不可知性の問題を人に突きつける。さらに、痕跡=インデックス的記号は、アイコン的記号やシンボル的記号とちがって、人為を介さずに、「ものだけの世界」で成り立つものであって、そこに、見るものは一種の疎外感を感じる。こうしたいわば負の要素が、痕跡の魅力に繋がるのだという。

  • 一種の「無気味なもの」か?

ここで、痕跡の二重化の問題がもう一度、クロース・アップされる。痕跡もまた、ステーブルなものではなく、つねに揺らぎ、変化し続ける。ハンド・アウトから引用すると、「痕跡化の過程とは、複数の痕跡が上書きされつづける連鎖過程であるのみならず、一つ一つの痕跡が自らの痕跡を抹消/残存=延命させていく過程」、すなわちディディ=ユベルマンの言う「裾曳く動態」なのである。この可変性、不安定性のなかに「美」の問題が潜むのではないかと言う。
昨日のコメント欄にご本人が書き込んでいられるとおり、この発表を一種の議論のカタリストとして銘じておられたようで、非常に盛りだくさんであった(5本くらい論文書けそう)。確かに、僕も遺影写真を「痕跡」として捉える時に、不動のものとして捉えがちであり、痕跡の可変性の問題は見落としていた。「古びた写真」の問題--http://d.hatena.ne.jp/akf/20060319#p1でも提示されている--は、それこそ「無気味さ」やノスタルジアの問題と結びつくだけに、これは考えなければいけない。哲学・思想若手研究者の会 - 降っても晴れてもで指摘されている、「不変」を謳うディジタル技術の問題も重要だろう。勉強になりました。
ハンド・アウトで挙げられている文献もチェックしなきゃ。まずは、コリン・レンフルーを読んでみたい。

あと、佐藤さんの論文も

  • 佐藤啓介「あとにのこされたものたち--考古学から哲学への還路」『往還する考古学』2、2004