疑似イヴェントと模造記憶

ケーキ・カット撮影会とは、遺体と写真 - 蒼猴軒日録でも書いたが、「皆様、どうぞご遠慮なさらず、前にお進みになって、写真をお撮り下さ〜い」ってヤツ。ケーキ・カットをする新郎新婦は、ナイフで切る手を途中で止めて、カメラを見つめることを促される。
昔は、こういうのは式場のカメラマンと、カメラ好きの叔父さん(親戚に一人はいる)くらいが撮っていたものだが、コンパクト・カメラの普及、パーソナル化以降は、記者会見のカメラの砲列状態になって、すっかり結婚披露宴の重要イヴェントの一つとなってきている。
普通、重要なイヴェントだけに、大体は宴の盛り上がるときに行われるのだが、昨日は、それが宴の冒頭に行われた。「何でかな〜」と考えていたんだけど、今朝思いついた。
ここは、東山の名所に程近く、窓の外には、ある建造物の偉容が見えることが売りのレストランである。で、昨日の宴は、夕方から夜にかけてのイヴェントだったので、時間が遅くなれば、ケーキ・カットをする二人の背景の建造物がうまく写らないのではないか。昼の宴ならケーキ・カットは、普通の時間帯に行われたのではないだろうか。
つまり式場側が、フォトジェニックな環境を提供して、みんながレンズ付きフィルムやデジカメや携帯やヴィデオでそれを写すという図式。で、みんなのカメラには、式場が用意した「いい写真」が複製され、残される。D・ブーアスティンなら「疑似イヴェント」の好例として喜びそう(幻影(イメジ)の時代―マスコミが製造する事実 (現代社会科学叢書)』を参照)。
じゃあ、式場側がケーキ・カットの写真をスタジオで撮って、配っても同じようなものなのだろうが、でもそれじゃいくらなんでも見え見えだし、また「自分で撮った」という写真行為そのものが重要なポイントなんだろう。すなわち、その光景がモノとしてのプリント--外部にある--として存在するのではなく、パーソナルな記憶メディア--コンピュータのHDや携帯のメモリ--に痕跡として残ることの重要性。その痕跡とは、その光景の痕跡であると同時に、撮影した主体の痕跡でもある。「それは=かつて=あった」と同時に「わたしは=そこに=いた」(もう少し一般的にいうと、基本的にはレンズの向こうに誰かがいて写真を撮ったわけだから「そこに=だれか=いた」になるけど)
カメラの個人的なレヴェルでの普及というのが、パーソナルな記憶の蓄積の時代という面で語られることも多いけど、その記憶は既に誰かに用意されているものであるという、ちょっとP・K・ディック的な寓話である。

  • とはいえ、「複製技術時代以前にはほんものの体験、ほんものの記憶があって、それが今は喪われてしまった」というような論調に与するわけではない。昔は昔で、その時代なりの記憶の模造の仕方はあったろうし、それが複製技術なり、情報技術の変化に伴って、どのように変容していくのかを見ることが大切だと思う。