レゲエの「空間性」
昨日の続き。坂本龍一とレゲエ - 蒼猴軒日録を承けて、だらだらと。
昨日書いていた音程の高低による「上下」の感覚において重要なのは、ダブで言う「抜き」――ある楽器の音を急に消すこと――だと思う。たとえば持続するフレーズを奏でていたベース――レゲエの基部をなすもの――が突然取り払われることによって起こる平衡感の喪失を考えてみたらいいだろう。足下をすくわれ、空中に放り出されたようなあの感覚(身体が分断される感覚といってもいいか)。そしてベースが戻ってきたときの安定感/秩序の回復。これらも空間性を際だたせるものとなるような気がする。
レゲエは、もっと正確に言うとサウンド・システムで聴く/体感するレゲエにおける「上下」ということについて書いたけど、さらに重要なのは「奥行き」の感覚。これはエフェクト、とくに過度に深く掛けられたリヴァーブなどのアンビエント系エフェクトによってもたらされることが多いと思う。リヴァーブの掛け方によって、「向こうで鳴っている」とも聞こえるし、あるいは「こちらに飛び出してくる」(とくにスネア・ドラムのキメの一発に掛けるような場合)とも聞こえる。
実際、初期のダブにおけるリヴァーブの重要性は、案外見過ごされているような気がしてならない。ついついダブといえば、ディレイで「タンタンタンタン」と飛ばすのが目立つけど、たとえばリー・ペリーのBlackboard Jungle Dubを聴くと、リヴァーブの重要性が分かるはず。本来は、「生」の感覚をシミュレートする為に作られたエフェクターを、ムリヤリ深く掛けることによって生まれる疑似空間。
うまいことまとめられたかどうか分からないけど、これらが坂本のいう立体的な「絵」の問題なんじゃないかな、と思った。
だって、系統から見たらさ、ドミソとレファラだけ延々10分くらいやってる音楽だよ! でもね、よく聴いたら、そのむこうに立体的な色んな図柄があって、そっちを楽しんでるってことがわかったわけ。ある日。
時間的に展開していく物語のようなものを受容するのではなく、その時その時に起こる音的な刺激を受け取るという感覚。これはサウンドを考える - おつゆ日記に倣って「ミュージック」的なものではなく、「サウンド」的なものと呼んでもいってもいいかもしれない*1。
で、坂本によるその2年間のレゲエ学習が何時行われたかは分からない(おそらくは日本にレゲエ――「レガエ」と呼ばれていたりした*2――70年代のことだろう)が、その立体感を得た後に出来たのが、2006-12-05 - pêle-mêleで指摘されている『サマー・ナーヴス』、そして何と言ってもphewとのシングル、『終曲/うらはら』(PASS、1980)だと思う。是非、聴いて頂きたい2曲。ボクは坂本の熱心なファンとは言えないが、個人的には坂本作品のひとつの頂点であると思っている。