on LKJ pt.2――詩を詠む/聴く/詠む

LKJの詩集(Mi Revalueshanary Fren)を手に入れて面白く思ったこと。
たとえばiTMSにも上がっている"Want Fi Goh Rave"を試聴して貰えば分かると思うが、LKJの「詩」というのは、ジャマイカクレオールで書かれ、朗読されるので、内容を聴き取ることは難しい(他のレゲエDJに比べると聴き取りやすいけど)クレオールを日常的に話しているジャマイカ人やジャマイカ系イギリス人には分かるかもしれないが、それ以外の英語圏の人々にも分かりやすいものではないだろう。でも、彼は明らかにコミュニティ内部ではなく、その外部に向けてその詩を発信している。
で、これをテクストの形で読むとどうなるかといえば、これもまた難しい。というのも、彼はクレオールでの発音を、そのままローマナイズする形で書いているから。
たとえば「暴れに行きたい(Want Fi Goh Rave)」の冒頭はつぎのように記される。

I woz
waakin doun di road
di adah day
when I hear a likkle yout-man say

なかなかすっとは入ってこない。ここでのひっかかりが第一のポイント。でも、これを彼の朗読=歌を聴きながら読むと、一気にすっと入ってくる。スタンダードな英語に直すと次のようになるんだろう。

I was
walking down the road
the other day
when I heard a little young man said

って感じか。


あるいはテクストを声に出して読む=詠むという方法でも良い。

アイ
ウォズ・ワーキン・ダウン・ディ・ロード
ディ・アダ・デイ
ウェン・アイ・ヒア・ア・リク・ユートゥ=マン・セイ

だからLKJの「詩」というのは、前掲書の序を書いているラッセル・バンクスという作家が指摘するとおり、「詩を黙読する」という近代的な態度で受容されるべきものではないんだろう。目で読むだけでなく、耳で聴き、口で詠むことによって、はじめて「詩」として立ち上がる。だからこそ、彼はレゲエ・バンドをバックに、詩を「詠む=詠唱する」というかたちを取ったんだろう。
それでも尚、彼はレコードを出すだけでなく、テクストとして詩を書き続け、発表し続けている。このあたりはどう考えるべきか。
この項、まだまだ続く。