テクストとしての都市

年度内の大学業務が今日で終わり、第一の〆切が過ぎ、さらに第二の〆切が過ぎても書いてない文章にようやく取りかかろうとしている。そのためにクリストファー・アレクザンダーの「都市はツリーではない」(1965)を読まなきゃ、てんで探してみると、このテクストって単行本には入ってないってことに気付く。はじめて訳されたのは、どうやら初出と同じ年の65年で、美術出版社の『デザイン』誌に出たらしい。で、大学の図書館で調べたら、ウチの大学は創立が68年なので、それ以前の雑誌はほとんどないのであった。
で、ネットで検索すると、そのテクストが、84年の『別冊国文学』に転載されているってことが分かった。でも、これも大学になかったんだけど。
今日、たまたま岡崎に行く機会があったんで、府立図書館に行ってみたら、『デザイン』のほうは資料館の方の所蔵でなかったけど、『別冊国文学』の方があったんで、めでたく入手。
で、この『別冊国文学』が面白い。前田愛の編集になる「テクストとしての都市」っていう特集。エイティーズの香り漂う都市記号論特集で、これは今だからこそ、もう一度読み直してみなきゃってものばかり。古本屋さがしてみよ。
目次はコピーしてきたんで、載せてみる。そうそうたる面々。

  • 『別冊国文学』1984年5月号、特集「知の最前線:テクストとしての都市」
    • 解説
    • プロローグ
    • I
      • C・アレクザンダー「都市はツリーではない」押野見邦英訳
      • R・バルト「記号学と都市の理論」篠田浩一郎訳
      • 清水徹「書物としての都市 都市としての書物」
      • 槇文彦「日本の都市空間と『奥』」
    • II
    • III
    • エピローグ

時代の空気みたいなものが感じられる。文化記号学を都市に適用するという新しい手法を紹介するという前田愛の気概が伝わってくる。とくに長谷川堯については、以前メタ東京観光 - 蒼猴軒日録に書いた建築史学会記念シンポジウム「東京論その後」で、藤森、初田、陣内の各氏が、江戸東京論の先駆として挙げていたのを思いだした。読まなきゃ。

ちなみに、アレクザンダーの翻訳文は、少し癖があるので、原典Architectural Forum, 1965)も押さえとかなきゃと思って、検索してみたら、思いっきりまるごと載せているサイトがあった。

アレクザンダーのいうツリーとセミラチスの問題は、中谷礼仁さんの『セヴェラルネス 事物連鎖と人間』で知って興味を持っていたものだが、前掲の特集の解説を読むと、当時、ドゥルーズガタリリゾーム論との類縁性が指摘され、注目されていたようだ市川浩「〈身〉の構造」『講座・現代の哲学〈2〉人称的世界 (1978年)』)。さらにその指摘は柄谷行人定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築』で批判されているという。いろいろ読まなあかんものが出てくるなぁ。