講義、講読
美術史特講(院)。前フリとして週末に行ってきた展覧会の話と昨日届いたトーマス・シュトルートの写真集Museum Photographsと、紙が良すぎて異常に重いウィリアム・ルービン編『20世紀美術におけるプリミティヴィズム―「部族的」なるものと「モダン」なるものとの親縁性』を紹介。来週は、クラウスから展示論に戻り(意味の四角形つながりで)クリフォードの「芸術=文化システム」をしようと思っているので、良いタイミングで届いた。で本ネタは、『クラウス「展開された場における彫刻」後半戦。ポストモダン状況において導き出された彫刻以外の3つの可能性(位置=構築、マークされた場所、公理的構造)について。
講義後、もぐってきてるid:seventh-drunker君と言語行為論から矢野顕子まで、うだうだと喋り、その後土曜日に学会発表する院生の文章チェックをして、当然、喋り倒し、それから移動。同志社に着くとid:Arata君がいて、彼の修論について、また喋り、それで授業へ雪崩れ込む。
文献講読@同志社。「交通信号の言語」。「赤」というシニフィアン/記号の形式が、「青、黄、赤」のセットで道路というコンテクストにあるとき、はじめて「共産主義」でも「血」でもなく、「通行禁止」というシニフィエ/概念と結びつけられる。差異のみが意味を作るという記号の恣意性について。記号論の核心である。で、脱線して、ゴレンジャーと言う言語(赤、青、黄、緑、桃)における「赤」の意味とか喋り倒す。また脱線して「意味の四角形」--非=青で非=赤という中立的な軸における「黄」--にずれ、さらに脱線して朝に話してきたクラウスのネタへと憑かれたように喋り倒す。
終わり頃、何でこんな声が嗄れてきてるのかなと思ったら、考えたら今日、1日喋り続けだ・・・。何かの霊媒状態。