パンクとスタイル
昨日のつづき。
パンクがスタイルではないとすれば、スタイルのあるものとは何か。モッド/スキンヘッド文化を、その代表として考えて良いのではないかと思う(勿論、テディー・ボーイでも、ロッカーでも良いのだが)。その服飾における細かいルール、クラークスのデザート・ブーツであれ、フレッド・ペリーのポロ・シャツであれ、スタ=プレストであれ(ここまではモッズ)、DMのチェリーレッド・ブーツ10ホール白紐通しであれ、細いサスペンダー(ブレイシズ)をベルト・ループの内側にクリップすること(スキンヘッズ)であれ、それらは、レディ=メイドを流用したモノであり、消費財としてのそれらは、本来のコンテクスト(軍用靴、スポーツ用品、アイヴィー・ルック、足の不自由な人のための靴、ズボンをつりさげるためのもの)から引き剥がされ、モッドないしはスキンヘッドというスタイルの構成要素という「意味」を付与される。そして、それらの流用物を購入し、組み合わせることによって、若者はスタイルを手に入れ、さらには「一人のモッド」「一人のスキンヘッド」というアイデンティティを獲得できる。消費財(フェティッシュ)によるアイデンティティ形成(「我買う、故に我あり」byB・クルーガー)。ただ、それが流用によるブリコラージュであること(だからモッドの真正性というのは、そもそも矛盾を孕んでいるもので、だからこそ、それが重要なのだ)が、通常のブランドによるアイデンティティ形成と、ストリート・スタイルの違いである。
では、パンクは何か。ヘブディジ(『サブカルチャー―スタイルの意味するもの』)も言うように、パンクはそれまで存在した全てのストリート・スタイルのつぎはぎである。テッズのラバー・ソール。ロッカーズの革ジャン。モッズの極細のネクタイ。スキンヘッズのブーツ。で、それらを繋ぐものが、「安全ピン」という流用物である。パンク性とは、それぞれの断片化されたスタイル構成物にあるのではなく、それを繋ぐ安全ピンにあるというヘブディジの指摘は、非常に納得がいく。パンク性とは、断片化された「モノ」にあるのではなく、「断片化して繋ぐ」という行為にあるのであり、名詞ではなく、動詞なのではないか。パンクというのは汎スタイルであると同時に、非スタイルでもあるといえよう(だからストラマーの言葉は、パンクの「スタイル化」、「トライブ化」への反応であるのだ)。
で、こんなことが起こった後に雲霞のように出てくるさまざまなスタイルは、もはやパンク以前のそれとはちがう。ストリート・スタイルをメタ流用したものだから。モッド・リヴァイヴァルも2トーンやオイ!(スキンヘッド・リヴァイヴァル)もサイコビリー(ロカビリー・リヴァイヴァル)もゴス(サイケデリック・リヴァイヴァル?)も、それぞれが参照している「オリジナル」のような真正性はもはや備えていない。全てが「ポスト」なスタイルなのである。
てなことを考えている。で、実は第二のパンクとして、80/90年代のクラブ文化における「スタイルのスーパーマーケット化」という現象が考えられるのだが、それはまたいずれ。あと、端からポスト・スタイルな状態ではじまる東京モッズやその他の「トライブ」に関しても考えなければ(イギリスのV&A美術館でのストリート・スタイル展の図録においては、「スタイルのスーパーマーケット化」の好例として80年代後半の東京のクラブ・シーンが採り上げられているのも面白い)。