遺体と写真

別に誰が期待してるってわけじゃないだろうけど、遺影写真の研究者を自認する以上、一言いっとかなきゃって気になって。
以下の記事について。消えるといけないので引用。

<お葬式>カメラ付き携帯で最期の顔パチリ 困惑派・理解派
 お葬式の際、亡くなった人の顔をカメラ付き携帯電話などで撮影する人が増えている。葬儀関係者には「人の死を悼む気持ちが荒廃している」と感じる人がいる一方で、「時代とともに葬儀も変わる」と受け入れる人もいる。あなたは、最期の顔を撮影されたいですか?
 昨年7月、横浜市内の斎場。出棺前に花を詰め始めると、親族や友人5〜6人がカメラ付き携帯で故人の姿を撮り始めた。同市の葬儀デザイナー、出口明子さんにとっては初めて見る光景だった。故人と生前から付き合い「本人の意思を尊重した葬儀」をサポートしただけに「注意すべきか」と迷ったが、親族が何も言わなかったので黙っていた。翌月、私的に出席した葬儀でも同じ場面を見た。
 全国の葬儀社でつくる全国葬送支援協議会(総本部・東京都千代田区)の斎藤浩司理事長(34)は「月に1度は見ます」と話す。「中学生や高校生は『撮っていいの?』という雰囲気だが、30〜40代の人は当然のように撮影する」と話す。香川県三木町の三木・長尾葬斎組合「しずかの里」職員、長尾鉄夫さん(55)も「20〜30代の若い人が『記録に残す』という感じで撮る」と話す。
 出口さんは「人を悼む気持ちが荒廃しているのでは、と気になる。亡くなった方は死に顔なんて絶対に撮られたくないはず。撮影の可否まで遺言を取ることも検討しなければ」と困惑。斎藤さんも「カメラが身近になり気軽に撮るのだろうが、心の写真を撮っておく(脳裏に焼き付ける)のが一番」と話す。
 一方、長尾さんは「葬儀に対する考え方も時代とともに変化してきた。臓器移植が一般化し、遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄くなったのでは」と理解を示す。
 メディア社会論に詳しい評論家・武田徹さんは「対象を撮影し、他者とともに確認しなければ“リアリティー”が感じられなくなっている。葬儀も焼香だけでは満足できず、故人との確かなつながりを持ちたいとの思いから撮影するのだろう」と分析。カメラ付き携帯などの普及で何でも撮影する風潮に加え、現代人の感覚や死生観の変容という社会背景を要因に挙げている。【稲田佳代】
毎日新聞) - 2月16日16時3分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060216-00000066-mai-socihttp://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060216k0000e040094000c.html

この記事をブックマークしてたのだが、結構それについているコメントを見ると、否定的な見解、感想が多い→はてなブックマーク - http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060216-00000066-mai-sociはてなブックマーク - お葬式:カメラ付き携帯で最期の顔パチリ 困惑派・理解派―今日の話題:MSN毎日インタラクティブ


以前のエントリでも書いたが(没後写真 - 蒼猴軒日録)、僕自身も、実はこれを体験している。そこで書いたとおり、多少吃驚はした。
でも、写真の歴史を学んでいる者としては、遺体の写真を撮るということは、取り立てて驚くようなことではない。上のエントリにも書いたが、19世紀の北アメリカでは、ごく普通のこととして行われていた写真行為であるからだ。その時、別に「遺体が神聖不可侵なものとの考えが薄」かった訳ではない。この写真行為の源流に、19世紀的ロマン主義における「英雄的な死」のカルトがあることは確かだし、そういう意味では、今より遺体は聖なるものであったと言える。
ただし、普遍的な行為ではないことは了承している。19世紀北アメリカと、21世紀日本とは全く違う社会であり、それを同一視してはいけない。写真師によって撮られ、金箔押しの革ケースに入れられたダゲレオタイプと、携帯で撮られた写真とは全然違うことも確かだ。また、ほとんどの国や文化ではこういうことは行わないし、19世紀アメリカという特殊な時代、文化的コンテクストで行われた表象行為であることは確かである。それでも、或る特定の地域、時代に行われていたということは、これは別に人間全体の本質的な禁忌に反する行為ではなく、さまざまな「悼のかたち」のひとつとして理解すればよいのだと思う。別に「荒廃している」わけじゃなく、一つの哀悼の儀式であると思う。


ただ何故こういうことが、21世紀の日本という特定のコンテクストで行われるようになったのかは、考えなければいけないと思う。
もちろん、デジタル写真の特性やカメラ付き携帯の普及というものが、一つのひきがねになっていることは確かであろう。プリントしなくても良い、消すことにさほどのためらいがない(プリントを破り捨てる行為と比べて)などのデジタル写真のさまざまな特性がこれを起こしていることは確かだと思う。


でも、他に葬祭の形態の変容が原因としてあるような気がしてならない。
親戚が多いことや、家業のつきあいの関係もあって、僕は39歳としては、比較的多く葬儀に参列する機会を持ってきたと思う。で、やっぱり最近気付くのは、いわゆる葬祭場での葬儀が多いこと。遺族にとっても、参列者にとっても、楽であることは確かで、また住宅事情を考えると、普及するのも無理はないと思う。
で、そうした葬祭場での葬儀において、「最後のお別れ」というものが、クロース・アップされてきているように思う(漱石の句「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」にあるように、この儀式自体は昔からあったものだとは思うが)。読経などの儀式が終わり、一般の参列者が帰ったあと、棺を移動させるときに行われるあれである。棺の蓋を開け、葬祭場の職員が、祭壇の供花を集め、トレーに並べて、それを遺族が取って棺のなかの遺体に供える儀礼である。「みなさまお並びになって、最後のお別れを」というもの。花があまったら二回、三回と行われたりするあれである。
あれに参加するたび、思い出すのが、最近の結婚式でよくある、ケーキ・カットのとき、職員が参列者を促して、まるで記者会見のように写真を撮らせる撮影会のことである。儀礼の中に写真撮影の機会が組み込まれているという。もちろん、葬儀では、撮影を促すことはないが、なんとなく似ていると思う。もしかしたら、こうしたマニュアル化された写真行為が、遺体の撮影行為を誘発させるのではないだろうか--何の確証もないし、さっき風呂に入っている時に思いついた妄想に過ぎないが。


葬儀や悼のかたちが変容していることは確かである。ただ、はてブでの反応を見る限りは、まだまだ人の禁忌に触れる行為のようである。でも、もう一度、没後写真(Postmortem Photography)というものが復活してきたことは興味深い事例だし、もう少し様子見だな。あと、禁忌の構造についても考えなければいけないだろう。携帯、ないしはデジカメだから非難されるのかもしれないし。