風景論を語る赤瀬川原平と柳田国男

一昨日挙げた本=赤瀬川原平四角形の歴史 (こどもの哲学・大人の絵本)』。「大人のための絵本」を謳うシリーズなんだけど、この風景論が秀逸である。「風景」というのを人間特有の--しかも近代特有の--場所認識の方法の一つとして、その歴史を、とくにフレーム=四角形(窓/額縁)の問題に着目して説くもの。絵本だから易しい文体で書かれているけど、相当複雑なことを言っている。以下、冒頭の章「風景を見る」から抜粋。

  • 犬も風景を見るのだろうか。
  • 犬は風景というものにきがつかないんじゃないか。/犬は物を見る。
  • 物の向こうには風景が見えるはずだが、犬はたぶん、その風景を見ていない。物だけを見ている。美味しそうだな、と思って見ている。
  • 物は必要だから、犬は物を見る。つまり物件を見る。肉や電柱やご主人様など。でも風景はとくに必要でないから、犬は風景なんて見ないだろう。目に入ってはいても見てはいない。(太字は僕)


赤瀬川が「物件」というとき、当然思い起こされるのが、「トマソン物件」である。超芸術トマソンとは、ある意味での反=風景的営為なんではないかと思っていた仮説に対する答えになるかも。


上記の記述で思い出したのが、柳田国男の風景論である。
風景とは、視覚中心主義的で、「距離」というものを前提としたパラダイムであることは、さまざまな論者が指摘することであるが、柳田の以下の文にもそれは読み取れる。

風景はもと今日の食物と同じように、色や形の後に味というものを持っていたのみか、さらにこれに伴うていろいろの味と音響の、忘れ難いものを具えていたのである。それを一枚の平たく静かなるものにする技芸が起こって、まずその中から飛び動くものが消え去った(『明治大正史 世相篇 (中公クラシックス)』)。

また、柳田は、「風景」という認識方法--「ものの見方」の一つ--を「要望なき交渉」と定義し、それを成立させる契機となった装置として、鉄道汽車の「窓」--すなわちフレーム--を挙げる。

汽車では今まで予想もしなかつた景色の見やうが有ることを、もう心づかぬ人も無くなつた。白いリボンに譬へらるゝ山路の風情、村を次から次へ見比べて行く面白味、又は見らるゝ村の自ら装はんとする身嗜なみ、又時代によつて心ならずも動かされて行く有様、斯んなものを静かに眺めて居ることは、「汽車の窓」にして始めて可能である。或は又要望なき交渉と名づけてよいであろう。捕らうという気にもならぬ小鳥、摘んで食べようと思はない紅色の果実が、あゝ美しいといつて旅人から見られる場合は、弥次や喜多八の時代には、さう沢山には遭遇することが出来なかつたのである(「豆の葉と太陽」『定本柳田国男集』2巻、筑摩書房、1962)。

赤瀬川と柳田。採集者が風景論者となる好例である。みうらじゅんは、いつ風景論を書くのだろう。


ちなみに柳田の風景論については、佐藤健二氏による諸論考を参照のこと。たとえば『風景の生産・風景の解放―メディアのアルケオロジー (講談社選書メチエ)』など。