バタイユの「美術館」

講義や講読で紹介しようとバタイユの「美術館」(1930年)という文を訳してみる。って言っても、英語からの孫訳(アネット・マイケルソン訳、『オクトーバー』36号〔1986年春〕に掲載)ですけど。id:shirimeくん、これでいいですかね? なんかあれば指摘よろしく。

ジョルジュ・バタイユ「美術館」
 『百科全書』によれば、近代的な意味での最初の美術館(最初の公共コレクションという意味)〔ルーヴル美術館〕は、1793年6月27日のフランス〔革命政府〕の国民公会において設立された。したがって、近代的美術館の起源は、ギロチンの開発と関係しているのである。ただし、17世紀の終わりに設立されたオックスフォードのアシュモリーン博物館は、大学に属するものでありながら、すでに公共のものであった。
 〔その後の〕美術館の発展は、その〔最初の〕設立者たちによる最も楽観的な希望をも、明らかに上回るものであった。世界の美術館の全ては、今や富の大量の蓄積の代表格であるが、世界中の美術館の観客たち全ては、確かに、今や物質的な心配事からは解放され、〔精神的な〕観照に集中している人類の壮大なスペクタクルを提供している。
 私達が認識しなければならないことは、展示室と美術品は、単なるハコであり、その中身になるのは、観客であるということだ。美術館と私的なコレクションを分かつものは、その中身なのである。美術館は、大都市の肺のようなものである――群衆は日曜日毎、血液のように美術館に流れ込み、浄化され、新鮮なものになる。絵画は、単なる死した平面にすぎない。権威ある批評家が現実的に言うように光明と光輝の間断なき戯れが生みだされるのは、群衆の中なのである。観客の流れが、彼/彼女らの眼を魅了する神々しい幻視を模倣しようという欲望に突き動かされているのは、観察していて面白い。
 グランヴィルは、美術館に関するハコと中身の関係を、観客と見られるものとの間にかりそめに取り結ばれる絆を誇張して(あるいはそのように見えるように)図式化した。コート・ディヴォワールの原住民が、新石器時代的な、磨かれた石で作られた斧を、水の充たされた容器のなかに置き、その中で洗って、彼が雷石(雷の一撃で空から落ちてきた)と考えているものに鳥肉を捧げるとき、彼は熱狂的感情とモノとの深い霊的一致を、ただ予測しているだけなのである――それは、現代の美術館の観客を特徴付けるものである。
 美術館は、巨大な鏡である。そこで人は最終的には周到に自らを観照し、自らが文字通り驚異の対象であることに気付き、美術ジャーナリズムにおいて描き出される法悦に身を任せるのである。

「museum」だけど、あきらかに美術館――たぶんルーヴル――を念頭に置いて書かれているので「美術館」とした。館のみならず、「美術品」もハコに過ぎず、美術館を成立させているのは、観客/群衆であるとしているのがポイントだろう。
底本は、Georges Bataille, "Museum," Annette Michaelson, trans., Bettina Messias Carbonell, ed, Museum Studies: An Anthology of Contexts, Malden, MA: Blackwell, 2004, 430.


(追記)おっと、『著作集』に日本語訳あるらしい。そりゃそうか。チェックしとこう。