衣服の哲学

こないだのNYのシンポジウムで、漱石の死亡記事を分析する中で、すこし寄り道として漱石が「カーライル博物館」という掌編(『夏目漱石全集〈2〉 (ちくま文庫)』)で、トーマス・カーライルデスマスクから、さまざまな追想を紡ぎ出すくだりについて触れたら、コメンテーターの稲賀繁美氏から、そこまで言うなら、漱石がカーライルをどう読んだかについても考えないと、という指摘を頂く。
というわけで早速、図書館から『衣服の哲学』(宇山直亮訳、日本教文社、1962)を借り出し、ぼちぼちと読み進める。
いやぁ、これが結構面白い。ドイツ人思想家トイフェルスドレック博士が記した難解、晦渋、かつ支離滅裂な著書を解読するという、一種のメタ=フィクションのような体裁を取っている。トイフェルスドレックの狷介な性格をさまざまに紹介したあとで、ようやく「衣服の哲学」の紹介にいたるところまで読み進める。しかし、これが流石に19世紀の書物。話がでかくて、次から次へと話が飛び、読みにくいことこの上ない。
どうせ読みにくいなら、原文(これがドイツ語風の英語という厄介なモノらしい)と照らし合わそうと、発注。

Sartor Resartus: The Life and Opinions of Herr Teufelsdrockh

Sartor Resartus: The Life and Opinions of Herr Teufelsdrockh


そういえば以前読んだ樋口覚『日本人の帽子』でもカーライルについて触れていたなと思い、引っ張り出すと、「カーライルの『衣服哲学』と帽子」という章があった。これも読まなきゃ。

日本人の帽子

日本人の帽子

他に以下に「カーライル博物館」についての論攷が所載されているよう。


カーライルと漱石という問題なんて、山ほど書かれているんだろうな。上の論文などをきっかけにぼちぼち探し出します。

↓も読んでおかないと

世紀末と漱石

世紀末と漱石