迷い子の眼

で、大阪は慣れないもんで、さんざ迷う。サードギャラリーのビルが見つからず迷い(ビルの目の前で)、MEMのビルがまた見つからず、自分が何処にいるのか全く分からず不安になり。でも、迷いながらも、往路の電車で読み返してたド・セルトーの言葉を思い出しながら、楽しく迷うことにする。ちょっと長いけど、好きな文章(訳もいい)なので引用したい。

そうした〔高層ビルから見下ろすような遍-視する権力を持った〕神をよそに、都市の日常的な営みは、「下のほう」(down)、可視性がそこで途絶えてしまうところから始まる。それは、歩く者たち(Wandersmanner)であり、かれら歩行者たちの身体は、自分たちが読めないままに書きつづっている都市という「テクスト」の活字の太さ細さに沿って動いてゆく。こうして歩いている者たちは、見ることのできない空間を利用しているのである。その空間についてかれらが知っていることといえば、抱きあう恋人たちが相手のからだを見ようにも見えないのとおなじくらいに、ただひたすら盲目の知識があるのみだ。この絡み合いのなかでこたえ交わし通じ合う道の数々、ひとつひとつの身体がほかのたくさんの身体の徴を刻みながら織りなしてゆく知られざる詩の数々は、およそ読みえないものである。すべては、あたかも盲目性が、都市に住む人びとの実践の特徴をなしているかのようだ。これらのエクリチュールの網の目は、作者も観衆もない物語〔イストワール〕、とぎれとぎれの軌跡の断片と、空間の変容からなる多種多様な物語をつくりなしてゆく。こうした物語は、都市の表象にたいして、日常的に、そしてどこまでも、他者でありつづけている(『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)山田登世子訳、国文社、1987年)。

少し畠山直哉さんの文章に似ている気がする。
京都の、とくに街中を歩くときには、生まれ育った町だし、例の「グリッド・マップ」が完全に近く頭の中にインプリントされているので、いわば「神の眼」で歩いてしまう。ということは、周りを見ないということで、さほど知らない街で迷う経験は、却って周りが「読みえないテクスト」として見えてきて、楽しいことであることを再認識した。
迷った辺りには、戦前のビルディングが結構残っているというのは知っていたが、実際に歩いてみると相当ある。こりゃ京都より多いな。

で、MEMに辿り着く。ここは本当に迷って、実は、上に書いているような悠然としたものではなく、「神の眼」(i-modeね)に頼らざるを得なかった。で、辿り着いたこのビルがまた良い感じ。大正期の建築らしい。内装が木と漆喰で、これがまたまた良かった。