入檻

morohiro_s2005-12-24

キャリー・バッグに閉じこめられ、呆然として、目が寄ってしまっているアントン。
ちょっかいを出すライカ。次は自分だとも知らずに。
で、次はライカをキャリーに入れようとしたら、アントンの様子を見て察知したのか、大逃げ&大暴れ。はあはあ言いながらバック・パック型のキャリーに押し込んで、動物病院へ行き、年一回の三種混合ワクチン。診て貰ったら、両者とも健康に問題はないものの、少々肥満の様子。ライカ1歳=3.7kgはまだ良いが、アントン5歳=5.7kgはちょっと問題あり。最近、餌を遣りすぎないように気を付けてはいるんだけど。ちなみにライカは「日本猫」、アントンは「シャムMIX」と分類されていた。

反=風景としてのツギラマ

久しぶりに手に取った本。

フォトモ―――路上写真の新展開

フォトモ―――路上写真の新展開

随分、昔に買って、面白いなと思いながら、さほど深く考えることもなく読後に書棚に仕舞っていた。今日、何となく手に取って、これはどうも相当重要なことがここにはあるのかもしれないと思った。
タイトルにもなっている「フォトモ」(たとえば《原宿竹下通り》)、すなわち写真を立体的に再構成した「写真模型」も面白いのだが、そのプロトタイプとなったツギラマ、すなわち複数の視点から撮られた写真を組み上げて一つの風景を二次元で再構成するもの(たとえば《2005/01/24:大阪門真市》)がどうも気になる。もちろん路上観察学の系譜とデイヴィッド・ホックニーのフォト・コラージュ(たとえばHockney: My Mother, Bolton Abbey, Yorkshire, Nov. 82 #4)が出会ったときに生まれてきたものだろうが、どうも「風景」という概念を脱臼させるようななにかがあるような気がしてならない。取り敢えず視点の複数性、時間の錯綜、遠近法の歪みなどが指摘できるが、それ以外にも多分もっと重要なことがあるんじゃないかなと思わせる。もう少し考えてみよう。先ずは年明けの写真論のオープニングはこれだな。
ユークリッド写真連盟の糸崎公朗氏のサイトは→http://www.itozaki.com/

クリスマスのポリティックス

ニューヨークでは、この季節はクリスマスの飾り付けと同じくらい、ユダヤ教ハヌカーのための燭台が飾られていた。キリスト教徒でも、ユダヤ教徒でもないので、どっちもあまり関係がないが、大学は短いとはいえ休みだし、正月気分もあって(正月も別に好きな訳じゃないけど)「Happy Holidays」という対象を限定しない複数形での挨拶は悪くないと思っていた。それとこの言葉を聞いてはじめて、クリスマスの政治性というものが実感できた。
右傾化するアメリカ合州国、やっぱ騒いでいる奴等はいるみたいで・・・

「メリー・クリスマス」か、宗教色の薄い「ハッピー・ホリデー」か――米国各地でクリスマスを前にそんな論争が激化している。激論はクリスマス商戦の広告表示から、ツリーやカードの呼び方にまで及ぶ。背景には、ブッシュ大統領再選の原動力にもなったキリスト教右派が開始した「非クリスマス化」反対キャンペーンがある。だが、他宗教の信奉者には反発も強く、ちょっとした“クリスマス文化戦争”の様相だ。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/archive/news/2005/12/22/20051222ddm007030060000c.html

「寫眞」というコトバ

語源を辿れば、「光による記述」という意味である"photography"(後の「光画」という造語の方が原意に沿っている)に、なぜ「寫眞」という訳語がくっついたのか。ずっと昔に研究会で発表したこのネタ(眞ヲ寫ス--フォトグラフィと写真のあいだに)を文章にまとめはじめている。東アジアの画論における「真」の概念(これをおっかけだすと深く深くきりがないが)、カメラ・オブスキュラが「写真鏡」と名付けられた所以、「印影鏡」「直写影鏡」などのオルタナティヴな名前の問題、また中国語で「肖像」という意味を持つ「真」や「影」の問題など、再考しなければいけないことは山積み。取り敢えず主要な参考文献は以下。

辻論文、クロワサン論文のコピーが見つからん・・・