四角形ネタ(続き)

fukayaさん、mayumiさん、id:shirimeくん、昨日は、コメントどうも。また長くなりそうなので、コメント欄ではなくエントリとしてたてます。昨日も書いてあるとおり、数学は苦手なので、あまり突き詰めることはできません。あまり無理をすると、なんか変な怪我をしそうなので、出来る範囲内で。
id:shirimeくんの師匠が、どっかで書いているとおり、「ツール」という面は確実にあると思う。クラウスの論文のポイントは、場siteと密接な関係を持っていたモダン以前の彫刻=記念物に対して、モダニズムにおいては、彫刻は場所との関係を断ち切ったもの=場の喪失として出てくる。それは彫刻の自律性をもたらすが、かえってそれは隘路に踏み込んだ。またこれまでの「彫刻」の範囲内では捉えられないアースワークやランド・アート、あるいはインスタレーションが出てきた。じゃあ、もう一度、彫刻と場の関係を洗い直そう。で場における二つの対立、すなわち風景と建築から考えてみようとして、そのためのツールとしてクライン群が持ち出されたものである。大雑把に言えば。ややこしくならないようにクラインとグレマスの図式を引用元とともに挙げておく。
クライン図式(レイン編『構造主義』より)
グレマス図式(http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000522ch.htmlより)
クラウスの論文が出たときには、グレマスの論文はすでに出ていて、クラウス自身も註で言及している。にもかかわらず、グレマスの四角形は用いずに、クラインの四角形を使った理由としては、すごく単純に考えれば、グレマスの四角形だと、「風景であり、風景でない」「マークされた位置」と「建築であり、建築でない」「公理的構造」という二つ目の四角形の頂点の二つを導き出すことができないということがあると思う。もう一つの頂点、「風景であり、建築である」位置-構築に関しては、クラウス自身が例として迷宮、ナスカの地上絵、日本庭園というものを挙げているとおり、かつてあって、モダニズムによって芸術の外に追い出されたものであり、ポストモダンにより、再び見いだされたものと定義される。で、ポストモダンにおいて出てきたものは、上記の二中間項であると。
クラウス図式(『反美学―ポストモダンの諸相』より)
風景/彫刻/建築という三角形を、彫刻とは「風景でもなく、建築でもない」としか定義できない特権的な中間項であるという点に着目して、一旦、風景/建築の二項対立に戻して彫刻の特権性を消去し、それをクライン/グレマスのツールを用いて四角形に開く(展開する)、さらに二つ目の四角形を作るというのがポイントなのだろう。
グレマスの四角形にすると、その点は、「風景であり、建築ではない」ものと「建築であり、風景ではない」ものになってしまう。グレマスにおける各項に関しては、昨日挙げた池田氏、浜本氏の論文によれば、全ての項同士の関係は、対合関係(二回同じ操作を繰り返したら元に戻る)にあるというのが前提で、S1とS2、〜S1と〜S2の間には「相反」、S1と〜S1の間には「矛盾」、S1と〜S2、S2と〜S1の間にはそれぞれ「含意」の関係がある。で、グレマスの四角形だと、横軸が対立、縦軸が包含となって、否定の関係が対角線になってしまう。クラウスにとっては、矛盾の関係から上記二中間項を導き出すのが重要だったはずなので、あえてクラインの図を持ってきたのではないかと思う(どうも、クラインもグレマスも対角線の関係がどうしても見えづらくなってしまう)。
では、クリフォードの図式も考えなければいけない。その前に、クラウスとクリフォードの図式においては、四角形が45度回転して二つ重なっているということにも着目すべきだろう。つまり、クライン(数学/論理学)、グレマス(言語学)、池田(人類学=文化遺産の四角形)、浜本(人類学=マトゥミアの四角形)の各氏においては、一つの四角形なのだが、クラウスもクリフォードも、各頂点の中間項を以てもう一つの四角形を作っている点が違うのである。
で、クリフォードの図式は、美術史/美術館と人類学/民族学博物館という両制度が標的である(これは美術史と民芸の関係を考えるときに、重要なヒントになった)。これは、「芸術」「文化」の二項対立から、「芸術(オリジナル、唯一無二)」「文化(伝統的、集合的)」「非芸術(複製、商業的)」「非文化(新しい、普通でない)」の四角形を導き出し、それから「芸術であり文化である」真正性、「芸術でなく、文化でもない」非真正性の対立と、「芸術であり、文化ではない」傑作、「文化であり、芸術ではない」器物の対立をもとにした四角形を作る。さらにクリフォードはそれぞれの中間項をとって三つ目の四角形を作る。それは、「目利き、美術館、芸術市場」の領域における「真正な傑作」、「歴史とフォークロア、民俗博物館、物質文化、工芸」の領域における「真正な器物」、「偽物、発明品、技術博物館、レディ・メイドと反芸術」の領域における「非真正な傑作」、「ツーリストアート、商品、骨董品コレクション、実用品」の領域における「非真正な器物」からなるものである。
クリフォード図式(『文化の窮状―二十世紀の民族誌、文学、芸術 (叢書・文化研究)』より)
クリフォードにとって重要なのは、三つ目の四角形の下二つの頂点、すなわち美術史からも人類学からも無視された非真正なモノに注目することである。つまり、これを導き出すときに重要なのは、含意関係であり、矛盾関係ではないということ。それに対して、クラウスにとって重要なのは、矛盾関係であり、含意関係ではないということ。それぞれの目的に応じて、使いやすい方を使ったといえるんじゃないか。
で、何でこの四角形の問題に拘っているかというと、自分自身の研究においてクリフォード図式が重要なのはいうまでもないが、クラウスに関してもトポグラフィの問題に大きく関わってくるからである。とくに「マークされた位置」に関しては、シチュアシオニストとか、ヒップ・ホップ文化におけるグラフィティの問題(なわばりの表象としての「タグ」)とかとも併せて考えなければいけないかと思っている(実はあるところで「ストリート」という主題で書けと云われているので)。
クラウスの図式をじっと見ていると、クラウスの見いだした新たな領域、すなわち「マークされた位置」と「公理的構造」が、どうも新たな対立関係を作るのではないかと思い始めた。で、それは、もしかしたら(あくまでも仮説だけれど)「場所place/lieu」と「空間space/espace」の対立に重なるんじゃないかと。
場所/空間の概念規定については、難しいので、まだまだ勉強の最中だけど、とりあえずはミシェル・ド・セルトーによる規定(『日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)』)に従っておこう。以前、僕がまとめたものをコピペする。

ド・セルトーによれば、「場所」とは、特定の位置であり、「安定性」「適正性の法則」に関連するものである。それに対して、「空間」とは、人の活動や物語や記号によって活性化された場所――「実践された場所」である。「空間とは実践された場所のことである。たとえば都市計画によって幾何学的にできあがった都市は、そこを歩く者たちによって空間に転換させられてしまう」とド・セルトーは述べる。すなわち、場所に対する空間とは、地図に対する順路、ラングに対するパロール、静的なものに対すると動的なものなのである。

で、この対立構造をずらして、W・J・T・ミッチェルは、ルフェーヴルの空間論(『空間の生産 (社会学の思想)』)をもとに、場所/空間/風景という三角形を作っている(Landscape and Power)。ただし、ここでいう風景は、クラウスの風景とは違う。「記述」に関わる概念なので、トポグラフィと言った方がややこしくないだろう。これも参考にしつつ、四角形に開くことは出来ないかと思っている。ただ、そこで「場所ではない」もの、「空間ではない」ものが何かということに関しては、まだまだ考えなければいけない。この話も、上のストリートの問題にしても、まだまだ先行き不透明ではあるけれど。
今朝はこれくらい。出かけなきゃ。id:shirimeくんが言っているx/-xとS1/S2の問題やクラインとグレマスの関係については、グレマスがうちの学校の図書館にはないので、同志社に行ったときに借りて読んでから報告します。
(追記)クラインとグレマスについてのメモ
クラインの図式は、(1)任意の項xに対して、(2)二つの操作(「符号を変える」「逆数をとる)で-xと1/xが導き出され、(3)二つの操作を同時に行うことによって-1/xが導き出される、という三段階のものである。それに対して、グレマスの場合は、(1)S1(x)に対してまずそれと対立するS2(-x)を設定し、(2)それぞれの「ではない」(1/xと-1/x)を交差させてとる、という二段階の操作である。この違いが、shirimeくんのコメントにあった問題だろう。で、なんで交差しているかといえば、上に書いたように、矛盾関係を際だたせるか、含意関係を際だたせるかの違いなのかな?