Manga into Art History
先日、「マンガの始源」言説について書いた(id:morohiro_s:20051217#p1)けど、その話題に少し関連するこんな本が出ていたので早速購入。
- 作者: 辻惟雄
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 2005/12/09
- メディア: 単行本
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で、帯には「縄文からマンガ・アニメまで」。この惹句に目が止まった訳である。
辻氏といえば、東大の日本美術史の元教授(丁度、氏の「『真景』の系譜--中国と日本」を読み返しているところ)であるわけで、そうした権威ある人が書いた美術史の通史に「マンガ・アニメ」が入ってくるのは、ある意味革命的なことかも知れない。ただ、氏の『奇想の系譜 (ちくま学芸文庫)』が、村上隆氏によって「スーパー・フラット」の理論的支柱の一つとされたつながりを考えると、それらが「美術史」に組み込まれるのも当然の帰結かも知れないとも思うけど。
で、ここではどういう「始源」が想定されているかというと……(pp.428-33)
- 飛鳥-奈良時代の落書き
- 《鳥獣戯画》、《信貴山縁起絵巻》、《伴大納言絵巻》などの12世紀の絵巻
- 室町時代の《百鬼夜行絵巻》
- 江戸期の鳥羽絵
- 鍬形ケイ(くさがんむり+恵)斎、葛飾北斎、歌川国芳などによる戯作本の挿絵
- 白隠、仙ガイ(崖からやまがんむりを取る)の戯画
- 曽我蕭白、伊藤若冲、長沢蘆雪らによる水墨画のマンガや戯画に通じる表現
- ビゴー、ワーグマン等による欧米のカリカチュアの伝統の紹介
- 北沢楽天の時事漫画、岡本一平のストーリー漫画、田川水泡の『のらくろ』
ああ〜っ! これまで言われてきた「始源」が、ほぼ全部挙げられている。これじゃ「辻氏によるマンガの始源は……」と語る訳にもいかない。「教科書」だから断定的な物言いを避けて全て紹介したのだろう。
ちなみにその後のマンガの歴史(アニメの歴史は、今日のところ省略)はどう語られるかというと……
- 戦後マンガの出発点としての手塚治虫=映画的手法の導入と、「壮大な宇宙的テーマ」
- 白土三平の「力強い劇画の世界」やつげ義春の「不条理な夢の領域」による青年/成人層への読者の広がり
- 大友克洋=「手塚マンガにはない描写力」「映画化されて世界的な話題」
- 少女マンガ(挿図で挙げられているのは萩尾望都)=「複雑に入り組んだコマ構成に時間や心理の経過を織り込んだ幻惑的な物語描写」→男性層も読者として獲得
- 「manga」として海外に評価され、展覧会が「美術館」で開かれる現状
ここで注目したいのは、少女マンガに関して、辻氏が美術史家らしいコメントを付け加えているくだりである。
細くうねる線描と白黒の色面の感覚的な対比には、鎌倉時代の『白絵』を連想させるものがある(p.431)
萩尾らの「日本独特といわれる」少女マンガを「線描」と「色面」に還元して、その「感覚的な対比」を指摘した上で、それを鎌倉の白絵(白描画)との共通性を指摘する「様式史」の大家の手付きである。これは言説分析の対象としていけるかも知れない(しかし著者の何気なく発言したくだりを掴まえて分析するのって、モレッリ法みたいだな)。
「マンガの始源」を語る言説は、一方でマンガの真正性の根拠を「美術」との繋がりに求めるものとして読める。その一方で、それは「マンガ」自体の本質的性格というものを定義づけようとするというものでもある。なぜなら、「マンガの始源」言説というのは、茫漠として掴みがたいマンガというものの総体から、任意の要素を取り出して、それと似たものを「美術史」のなかから見つけ出すものだからである。「マンガの始源」には、論者のマンガに対する考え方が反映されていると言ってもいい。だから、例えば「60年代の劇画におけるGペンの使用による線の肥痩は、室町期の水墨画を連想させる」ともできる訳だ(今、思いついてでっちあげたけど、もう既に指摘されているかな)。
で、この作業のなかで「任意の要素」をどう選び出し、抽出するかの時点でマンガの「本質」規定が行われる訳だ(これは、桂離宮などを例に取ったモダニズムと日本建築の親縁性という言説の作り方とも共通する)。そうした意味で辻氏による鎌倉白描画と少女マンガによる共通性の措定は、興味深い。白描絵巻における女性性(女絵=受容者、制作者が女性であること)と少女マンガの問題を考えるとジェンダーも絡んでくる。白描絵巻について語ったくだりには、次のようにある。
白描絵巻にこもる繊細で清潔な美意識は、女性のそれにふさわしく、その血脈は現代の少女マンガにつながっている(p.205)。
上記の引用では「連想させる」と直接的な影響関係については明言していないが、ここでは「血脈は〔…〕つながっている」と言い切っている。
じゃあ、辻氏がマンガの本質として何を考えているかについては、ちゃんと記述がある。
マンガとはなにか、細かな議論はさておいて、ここでは「大衆性と密着した戯画とその同類、とくに物語をともなうもの」という程度にとどめておこう(p.428)。
「大衆性」「戯画性」「物語性」がキーワードである。この問題、考えることがいろいろ多そうである。取り敢えずは、さまざまな「マンガの始源」言説の蒐集/分類に努めよう。
もう一つ、言説がどこから発せられたのかも考えに入れなければいけない。この本のように美術史や社会学/人類学など既成のディシプリンがマンガを組み入れる(サルヴェージする?)かたちでの言説と、マンガ研究内部(制作者も含める)がマンガの始原や本質を措定する場合とでは、自然異なってくるだろうから(「マンガ研究の自律性」論議も考慮に入れながら)、それぞれの発話のコンテクストもしっかり踏まえなければいけない。
ちなみに「マンガの始源」言説に関しては、シュテファン・ケーン「江戸文学から見た現代マンガの源流:合巻『鬼児島名誉仇討』を例に」(ジャクリーヌ・ベルント編『マン美研―マンガの美/学的な次元への接近』)が先行研究をきっちりと紹介して批判している。ただし、それらを批判した上で「草双紙」を始源として措定してしまっている点で、もう一つの「マンガの始源」言説を作り上げてしまっている点は否めない。