奉天名所

風景ものの絵葉書は、さほど蒐集の対象になっていないのと、量が途轍もなくあるせいか、結構賢い値段で手に入れることが出来る。コレクター性質をほとんど持ち合わせていない僕(何しろモノの分類整理が苦手なので)だが、多少は持っている。
で、「奉天名所」である。紙封筒に入っていて、その表紙(上の写真)には、奉天の城門?が描かれ、「VIEWS OF HOTEN/欧亜を繋ぐ新天地/満州國の要都/奉天名所/最新四色版」とある。しかし、中に入っている絵葉書はモノクロ。看板に偽りありか、四色版とは表紙だけのことか、中身が入れ替わっているのか。でも、中身はちゃんと奉天(現・瀋陽)である。
中身は、八枚組(少なくとも僕の手に入ったのは)で、こういう感じで、写真と文字が白地にレイアウトされている。

版元に関しては一切分からない。ただ出版年に関しては、一枚だけ試し刷りなのか、こういう木版画が裏に押されているので、1934年以前であると分かる。

絵葉書に刷られた文字は以下の通り。順番は、都市風景から田舎へと僕が勝手に並べたもの。【】内は僕のコメント/つっこみ。

  1. 寿司詰めの山東移民 山東から移り住む移民の数は可成り多い。夫妻兄弟相携へて職を求める彼等の姿は余りにも淋しい。【都市人口構成に関する情報か。「淋しい」というのもキーワードか。】 
  2. 満蒙の上海 一歩ハルビンの町に這入ると宛然外国気分だ。赤や青や宝石箱をひっくり返したやうな外国婦人の行列だ。上図は厳然と立つ露國寺院の壮観だ。【都市景観。奉天ではないが。しかし、そりゃあ「満州国」は建前は独立国なんだから、「外国」だろうとつっこみを入れたくなる。あきらかに「外国」はヨーロッパのことである。今も変わらんか・・・】
  3. 易学大人 奉天城内の街角に白石山房と号して幡居する易学大人。--織るが如き奉天街頭所見。【都市景観】
  4. 支那街の夕を光る壺五つ 壺の持つ味と満蒙の持つ味とひと味似ている点が有る如く満州では壺を焼く大きな家を所々に見ることが出来る。(カットは陶器の枕である)。【労働風景と名産品。しかし壺と満蒙が似ているって・・・。この無茶なステレオタイプ言説、掘り下げてみると面白いかも知れない。高麗/朝鮮陶磁を素朴の美として称揚する民芸のまなざしも同質か? この裏に賀状の印刷あり。】
  5. 鳥籠の下の靴直し 千里鶯啼翠映紅/水村山郭酒旗風/長閑な大陸風景のスケツチの一つ。【「長閑」=無時間的、退嬰的な「大陸風景」の表象。添えられた漢詩は、杜牧のもの。】
  6. 土塀と牛と人と トウ【さんずい+兆】南の道を行く牛車の人は何を口づさんで行くのか--黙々として土塀は続いている。【牧歌的で淋しげな村の風景。ノスタルジックなまなざし。】
  7. 蒙古美人と糧桟 正装せる蒙古美人と糧桟の群馬車より運輸機関のない北地では馬と駱駝による運送より外には無い。【典型的な民族誌的な写真である。さらに女性表象であることにも注目。】
  8. 胡歌に乗つて 牧歌楽しき少年の夢を乗せて駱駝の上から監視する牧童の顔は朗らかに晴れている。【子供の表象。純真な子供としての満州? ここで言う「夢」の主体は誰だろうか。】

5. 6. 8
こうした観光絵葉書、とくにセット物が、民族誌的/地誌的であることがよく分かると思う。
ここに見られるのは、「無時間的」「非歴史的」「停滞的」「退嬰的」などのキーワードで表される、典型的なオリエンタリズムに似た表象である。ただ、オリエンタリズムの場合もそうであるように、ここにも「未開」(写真8にあるような、教え導くべき子供)として、差別的に見下げることと、「楽園」(子供の持つ純真さと未来)として憧憬の対象として描くこととは、何の矛盾もなく同居している。要するに「我々が喪ってしまったもの」へのノスタルジアの対象として、満州は描かれているのだ。
写真5と6はその典型だろう。こうしたノスタルジアのまなざしは、20世紀初頭の水彩画や芸術写真における日本の山村風景表象(拙論「郷愁のトポグラフィー」『文化学年報』52輯)に見られるものと同質である。とはいえ、日本のそれと似ているからといって、満州の風景が、内部のものと表象されている訳ではない。むしろ、満州の風景が「他者の場所」の表象であるように、日本の山村風景も「他者の場所」であるのだ。都市から見た山村、日本から見た満州という入れ子構造がここにはあるのだと思う。
他の絵葉書もリクエストあれば、どこかにアップします。
と思いつくまま、長々と書いてしまった。最近、ブログにアップする文章量が多いと、あちこちから突っ込まれている。何せ、当面、焦眉の〆切というものがないもんで、時間が比較的ある。で、過去の積ん読の整理や、将来のプロジェクトのためのメモとして書いているのですよ。